エッセイ40:忘れてはならない私の初心

投稿日:2013年5月20日

「初心の意味をご存知でしょうか?」
 東日本大震災の5日前につぶやきましたエッセイ6回での問いかけです。本来の意味とは異なった使われ方が非常に多い言葉です。正しい意味をご理解頂きたくて問いかけたのでした。

 能役者・能楽師の世阿弥の言葉に、「初心忘るべからず」というのがあります。著書「風姿花伝」に出てくる有名な言葉ですね。
 この言葉の意味を問うと、ほとんどの方は「思いたった時の前向きな気持ちを忘れない」というような言い方をされます。
 初心の真意は、そうではないようです。
「自分の芸が未熟であったことを、いつまでも忘れるな」という意味なのです。その真意は、人気の出た若い役者に対しての戒めの意味で使っていたのです。
                              
〈これからも謙虚な気持ちで目の前の問題や課題に向き合っていけるように、今でも忘れられない私の初心を、逃げないで振り返ってみたいと思います。昭和60年代と平成初期までの期間は、私の初心の溜まり場でもありました。〉(エッセイ第6回より)

忘れてはならぬ私の初心

【初心・その1】
 
 それは、昭和61年(1986年)9月のことでした。28年ほど前の話になります。
 その日の午前中、突然の呼び出しがありました。東北6県にある販売会社が合併する新会社がスタートする間際の頃でした。ある場所に直ぐ来て欲しい、という依頼でした。依頼というより命令でした。それも数日分の着替えも用意するよう指示されました。指定場所は、宮城県柴田郡川崎町にあります仙台市の水がめとして有名な釜房湖畔の宿泊施設でした。事情も何も分からないまま、急ぎ支度をして新幹線に飛び乗りました。40才目前のことでした。
 その日の19時過ぎに現地に到着しました。そこで知らされたことは、“合併会社の専任教育担当としての教育部次長が、私の10月からの仕事になること”、“今日から三日間行われている新任セールス研修のトレーナーがいないので、その一部を私が分担すること”の二点でした。呆然とも唖然ともつかない私の表情を察してか、「実施要項(研修カリキュラムの進め方とトレーナー用教材)もあるから、それを参考にして出来る範囲でやってくれればいいです。井上課長(その時点での役職)の商談力を見本として教えてくれれば十分です」と…… 。何とも釈然としないまま、「そんな無茶苦茶な」という言葉を飲み込んだことを覚えております。何しろ、“全く経験のないことを、それも研修講師を明日から二日間やりなさい”という、当時の私にとっては乱暴以外の何物でもない命令だったからです。
 講師としての二日間の出来栄えは、まさに“推して知るべし”でした。心の準備も教材研究もしないままに、30名弱の東北全エリアから集まった研修受講社員の前に立つのです。何をどうすれば準備したことになるのか、皆目見当がつかない状態でした。何しろ、教育担当としての経験も基礎能力もゼロでしたから。とにかく、教材を何度も読み返しては、準備ともつかないことを夜を徹して行いました。しかし、気が焦るばかりで、何も手につきませんでした。今の私がその場にいたら、間違いなくレッドカードを出していたと思います。

 一番恐ろしいと感じたのは、講師の言うことを百%信じて疑わない受講者の存在でした。それは、間違っていることでも正しいと刷り込まれることですから、それはそれは末恐ろしいことなのです。どれだけの時間を費やして教材研究をしても、十分ということはあり得ない世界ですから。
 その時点で、どのような事情や意図があったにせよ、これから研修を企画し運営する仕事に携わる人間として、この三日間の体たらくを恥ずかしいことと素直に認めることが出来るようになったのは、それから5年以上経ってからのことでした。
 そのXdayからの数年間は、目の前にある限りなく多くの新たな仕事を覚えること、その仕事をやり遂げることで精一杯でした。その間、初心は増えていったのでした。

【初心・その2】

 4月初旬は、新卒新入社員研修の時期です。昭和62年(1987年)4月は、新会社が発足して半年を経過しておりますが、研修一つ企画し運営することも儘(まま)ならない状況は変わっていませんでした。そんな半年間でしたが、少しは出来るようになったのが教材研究でした。出来るようになったというより、何はともあれ実行したということでしょうか。2時間する担当カリキュラムの場合、10倍の、いや30倍以上の時間を費やしたと思います。教材研究は、少しでも気になる意味不明の言葉の意味を調べることから始めました。
 しかし、どれだけ準備しても、勘違いや先入観からくる間違いを教えることがありました。その一つが、「仕事の進め方の基本」というカリキュラムでのことでした。その中に、原因追究の方法として5W法が出てまいります。その5Wを私はこう教えました。
 「5Wというのは、WHAT,WHY,WHEN,WHO,WHEREのことです。それらを明らかにしていくのが5W法です」と。
 その時は、私の先輩がオブザーバーとして参加していましたから、間違いを指摘されて、休憩時間後に訂正することが出来ました。
 正解は、「WHYを5回続けるのが5W法です。そうすれば、根本的な理由が明確になってきます」ということなのです。
 この間違いは、私の不勉強からくる能力不足、未熟さの表れなのです。5W1Hの5Wと同じなのだ、と思い込んでいたのです。準備段階で、安易に考えて、高を括っていたのでした。
間違いを指摘された時は、非常に恥ずかしかったことを覚えております。その気持ちは、それ以降の担当カリキュラムの運営にも影響しました。

 それ以来、間違って教えたことは、どのような手段を用いても、必ず全員に訂正連絡をすることを義務づけました。研修が終了して、現場に戻った後に間違いに気付くこともありましたから。
 私にとっての5Wの悲劇は、場所、おおよその時刻など、しっかりと記憶に残っております。

【初心・その3】

 これからご紹介する内容は、悔しさいっぱいの初心になります。
 あれは確か、昭和62年(1987年)か昭和63年(1988年)の初夏だったと思います。専任教育担当者7、8名が集められて、所属する販売会社の今後のビジョンや業務方針の検討合宿がありました。ねらいは、一にも二にも私たち専任教育担当の育成でした。それも、代表取締役の懐刀としての機能強化を求められての内容でした。
 朝から晩まで、想定される課題の解決策や今後の方針などを議論して意思決定する、というグループワークの連続でした。最初は、本部事務局が進行役を務めていたと思います。二日目あたりからは、その様相が一変しました。その難しい進行役(今流に言えば、リーダー、コーディネーター、ファシリテーターの三役兼務)を、断れない雰囲気の中で指名されたのでした。
 その時のテーマが何であったのか思い出せませんが、難しいテーマであったことは間違いありません。言葉も発せず何も出来ないままに時間が経過しました。数時間後、気がつけば、本部の事務局長がまとめ役になっていたのでした。
 何も出来ない、何もやれない、だから何もしなかった自分が、ただただ情けなくなりました。自分自身の力の無さに腹が立ちました。悔しくて悔しくて、涙すら出ませんでした。食事も出来ませんでした。
 それ以降の合宿をどのように過ごしたのか、今でも思い出せません。自信の一かけらも見い出せずに、無表情のまま施設を後にしたと思います。静岡県掛川市つま恋での3泊4日でした。

 それから何年かして、その経験が私の仕事遂行の原点になっていることを意識し始めたのでした。あの時のつま恋での四日間の試練を何とか乗り越えることが出来そうだ、という目途が立った時だったのかも知れません。

【もう一つの忘れられない初心】

 それは教育担当が陥りがちな勘違いの産物でした。
 TK販売では、教育部門が新卒採用の仕事も担当しておりました。会社説明、会社訪問、選抜選考試験、面接と、全ての採用活動を取り仕切りました。現在でもそうですが、入社希望者の採用担当者に対する評価が、入社決定に大きな影響を及ぼすことになります。私の場合、入社後3年間の基礎教育においても、教育部門の責任者として関わることになりますから、普通以上の愛情を感じる間柄になる可能性も高くなります。
 結婚式の主賓として挨拶を依頼されたことが、一再ならずありました。ある時から、彼ら彼女らの会社における厳父役・慈母役を自認する様になりました。それこそが勘違いの元だったのです。
 その勘違いとは、「社内の誰よりも、私の言うことなら、何でも受け止めてくれる。聞いてくれる」という驕りのような慢心でした。
 最大で10数ヵ所あった拠点に配属された新入社員の中には、理由はともあれ“退職したい”という人が出てきます。その時に、真っ先に聞き役・説得役として悠然と出向く私がおりました。それは、経営幹部から委任された仕事でもありましたから。
 自分自身の思いや感情を素直に表現してくれる人が多かったのですが、だからといって退職を決意した若人のほとんどは、説得に応じてくれることはありませんでした。中には、迷惑顔で早々に退席する人もおりました。「井上部長、何しに来たのですか!」と。
 またある時は、久しぶりに顔を合わせたのですが、挨拶もしてくれずに素通りする人もおりました。皆さん、私よりも20歳以上も年下の若手社員です。
 頭を打ち砕かれた気がしました。眼が覚めました。
「社内の誰よりも、私の言うことは、何でも受け止めてくれる。聞いてくれる」。それは思い上がりも甚だしい、傲慢な考え方だったのです。人間としての未熟さの産物だったのです。
 このことにも、それが初心と気づくまでには、ある程度の時間を要したのでした。

 以上の全ては、以前在籍しておりました会社における、未熟な私の姿でした。
 人事教育の仕事に携わっての20数年間を振り返って、もっともっと多くの初心を見いだすことが出来ました。新社会人なりたての頃まで遡りますと、赤面ものの未熟な姿のオンパレードになりそうです。さらに、この年になっても、未熟な自分が顔を出すことがあります。
 だから、『謙虚』の二文字を心に刻んで、一生学ぶ人であり続けようと思います。
                                                                                         (2013.3.15記)

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