エッセイ36:当たり前が変わったのです

投稿日:2013年3月19日

*エッセイ32の「私の入院想語・療養想語」は、それ以降、日記風に5回ほど呟いてみました。今回は、その総まとめの最終回分を掲載させて頂きます。

 入院期間中だけではなく、退院してからの療養生活においても、家族の支えが一番の励みになりました。家族の愛情が特効薬になりました。快復して元気になった暁には、“これもやり、あれもやり、…… ”と欲張るのではなく、“日々感謝なり、日々思いやりなり”の姿勢を崩さないで、眼の前の事象に対して誠実に向き合うことにしたいと思います。

私の入院想(そう)語(ご)・療養想(そう)語(ご):「当り前が変わったのです」
 人によって、病気の種類によって、患部の状況によって、手術後の様子や対応の仕方は千差万別なのだと思います。
 私の場合、肥大した良性の腫瘍を電気メスで削り取るという手術でした。肥大による圧迫で体液の流れが滞ってしまい、そのままの状態では完全に詰まってしまう状況下にありました。ちょっとした違和感を意識して診察を受けてからの7年間で、徐々に徐々に、身体の機能に変化が起きていたのでしょう。今年の7月初旬、もう限界に達したのでした。
 しかし、手術したからといって、何もなかった時(腫瘍のなかった時)のような状況に戻るかといえば、それはNOということです。ましてや、全部削り取ったわけではありません。再度大きくなる可能性だってあるようです。

 ここからが、私の入院想語・療養想語のまとめとしてのつぶやきになります。

 手術によって、正常時の当り前の状態に戻ったわけではありません。正常な時の当り前ではなくなったのです。手術直前の苦痛からは解放されましたが、30才台の時の正常な状況にはなりえないということなのです。手術前に思い描いていたことと、手術後のリハビリ生活の実態から、そのギャップに右往左往するのではなく、イの一番にしなければならないのは、発想の転換に努めなければならないことが分かってきました。否、そうすることでしか、先へは進まないのです。そのことが、これからの私の生き方のターニングポイントになるのです。
 身体の機能が正常だった時の当たり前は、手術後の当り前ではなくなりました。手術をして得た新たな機能が、これから先の当り前になるのです仕事であれ、何であれ、変化が起きれば、その変化に即応していかなければ生き残ることは出来なくなります。しばらくは生き残れたとしても、早晩退場を余儀なくされることでしょう。
 私自身の生活標準(パーソナル・スタンダード)を、変化した身体の機能に対応して作りあげる努力こそが、これからのリハビリの最大テーマになるということです。先ずは、変化した身体機能を受け容れて(=素直に認めて)、それに慣れながら、全快した段階からの生活標準(=当り前)を作りあげていくことになります。
 「私の入院想語・療養想語」をつぶやきながら行き着いた気づきが、これからの新当り前の構築になったのでした。その当り前を問い直すことが、加齢という変化への対応になるのです。

 余談なりますが、松尾芭蕉の説く「不易流行」は、人生万般に通じる理念であることが、初めての手術経験を通して、改めて教えられたのでした。

                                            (2012.10.16記)

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