エッセイ129:教ウルハ、学ブノ半ナリ

投稿日:2017年1月20日

 人口減少、超高齢化の時代になりました。総務省発表の2015年国勢調査(5年に1度実施)の速報値によれば、総人口は127百万人で前回と比べて減少に転じました。また65歳以上の高齢者率が26.7%(33,4百万人)で過去最高となりました。また、主要国で最も高い比率でした。この傾向は、ますます顕著になるといわれています。
 さて、これらの方向性から考えて頂きたいことがあります。それは、人材の奪い合いがより鮮明になってくるということではないでしょうか。容易に想像できることです。年令に関係なく、そう肚を括ることですね。学生の皆さんには、特に力を込めて申しあげておきましょう。それだけの危機感を持って今を生きて欲しいと感じているのです。
 現役のビジネスパーソンは、就業形態、雇用形態が何であれ、所属する会社や組織にもたれかかった働き方から脱却しましょう。正に従属的依存意識からの脱却であり、リスクテイクの心構えで対処することです。
 つまり、どのような会社や組織であろうとも通用する能力、認められる能力、貢献できる能力、重宝される能力を磨き上げることです。通用する能力を積み重ねて引き出しを増やすことです。そのためには、自分自身の生き方と心構えを明確にして、能力開発もキャリアアップもセルフマネジメントすることです。どのような状況にも媚びることなく、どのような事態にも想定外という思考停止に陥ることなく、状況に応じて賢明に革めていくことです。

 今回は、エッセイ127回(一人前の教育担当者への関門)の続編となります。

教ウルハ、学ブノ半ナリ

 「教えることは学ぶことである」
 このような表現は、世界の多くの国々に諺としてあるそうです。教育担当にとりましては、金言といえましょう。
 エッセイ127回目に掲載した『一千万円の買物』を寄稿してくれた友人は、“私のオリジナルではない”と断って、「教えることは二度学ぶことである」というフレーズを教えてくれました。“教えることで、自分の記憶の正確さを再確認し、忘れたことを思い出し、相手からの質問に啓発されます。正しく、二度学ぶことを実感しています。時々自分の中でその言葉を反芻しています…”と。

 中国の古典である『書経』には、このような一文があります。
 「教ウルハ、学ブノ半(なかば)ナリ」と。
 “教えることは難しいのです。先ず、教える側自らが十分に勉強しなくてはいけません。ですから、半分は自分自身の学問修業といえます”というような意味でしょうか。
『書経』につけられた先人の訓訳には、「人に物を教うるは学問の半分じゃ。物を読み、物を学びても、その事を人に教えねば、さほどに、飲み込めぬものなり」と書いてあるそうです。
 私が教育担当成り立ての頃、ある経営幹部からはこう言われました。「教えることが二だとしたら、八勉強しなさい。それだけの準備ができなければ辞めなさい」と。
 これらは、第一線を退くことが近づいてきたからこそ実感させられる金言となりました。

 教育担当として受講者の前に立ち続けて、つくづく思うことがあります。教えることは容易ではありません。潜在意識・潜在能力を引き出すことは、もっともっと容易ではありません。不確かな知識が露呈する、その場しのぎで終始する、思うように進行できない…、毎回反省点が浮き彫りになります。そんな辛酸を積み重ねたからこそ実感しているのです。教育担当者は、その任務の性質から考えて、他人の数倍は学ばなければいけません。数倍では済まないですね。十数倍、いや数十倍も…。それだけの覚悟が不可欠だということです。一方、反対方向から察すれば、教えることで二度学ぶことになります。深耕というおまけがつくのです。それをラッキーと考えられたなら、精神的余裕を持って楽しみ乗り越えることも可能ではないでしょうか。
 「教ウルハ、学ブノ半ナリ」を行動指針として10年間やり通したなら、どこの会社でも通用する能力は身につくと思います。私の経験則でしかありませんが、そう信じています。
                                                                  (2016.8.10記)

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