エッセイ330:“誰に投票するか?”、悩むことの多かった私

投稿日:2025年6月5日

 数か月もすれば、7月28日(月)に任期満了となる第27回参議院議員選挙が実施されます。そのことが脳裏にチラつき始めて、昨年10月27日(日)に行われた衆議院議員選挙と岩手選挙区参議院議員補欠選挙のネガティブイメージが、ぶり返してきました。選挙権を得て58年になる私にとって、これまでで一番かも知れないほど気乗りのしなかった、投票する気が失せてしまいそうになったダブル選挙でした。参議院議員選挙は、詐欺罪で在宅起訴されて辞職した議員の欠員補充選挙です。3年ほど前に、継続的な活躍を心底期待して一票を投じた新人議員でした。ですから、辞職に至った経緯やいくつかの不祥事には、憤りを通り越して、何とも言い様のない情けなさを感じてしまいました。その情けない気持ちは、一票を投じた私自身の洞察力・判断力の拙さに対するウェイトの方が高かったのです。そのことが、気乗りしなかった理由の一つでした。さらに、自由民主党の裏金を始めとした諸問題への曖昧な対応への苛立ちが積み重なったからだと思います。そんな昨年の国政選挙のネガティブな思いが蘇ってきたことと、毎回のように投票率低下が危惧されている選挙の実態が気になって、アレコレ感じていることを呟いてみたくなりました。現職議員の方々は、選挙区の住民を始めとして、国民の安全と生活を守るために、命を賭して日々任務遂行に励んでいらっしゃると信じております。その矜持には、心から敬意を表するしかありません。ですから、政治家への苦情を殊更のように言及するつもりはありません。しかし、不信感につながる失態行為に対しては、退場勧告を示す責任が存在すると思います。だからこそ、私たち国民が、政治を身近な自分事のテーマとして捉えることを願っての呟きにしたいのです。今回のエッセイは、これまでとは毛色の異なった景色になりそうです。

“誰に投票するか?”、悩むことの多かった私

 公職選挙法による選挙権の有無は別にして、私が一票を投じた初選挙が何時の事であったのか、何とか記憶を辿ってみましたが、その明確な姿は現れてくれません。やっとのこと思い出したのが、中学時代の生徒会執行部役員選挙でした。講堂兼体育館に集まった千人を超える全校生徒を前に、立候補者の立会演説会がありました。それから何日かして、投票選挙があったと思います。もう一つ記憶に残っているのが、東京薬科大学合唱団における団運営の役員選挙です。両選挙共に、日頃から立候補者と直に接していましたから、投票にさほど悩むことはありませんでした。心底信頼できる人に一票を投じることができましたから。国政選挙・地方選挙の場合、毎回のように、投票する候補者選定に悩んでおります。考えあぐねた末に、消去法で最後に残った人を記名することがありました。少しでも共感できる候補者に、ある意味致し方なく投票するという構図になります。言い方を変えますと、一番嫌いじゃなかった候補者に投票して、意義ある選挙権を何とか行使するというパターンと云えましょうか。無効を承知で他選挙区の候補者に投票する、またある時は白票を投じたこともあったと思います。何といっても、民主主義の根幹である選挙権を投げ出すことは、祖国への尊厳を蔑ろにする行為に等しいと感じたからです。しかし、現実の投票行動実態に鑑みれば、“投票したところで何も変わりゃしないだろう”と言って棄権することと、何ら変わりないという感覚になったこともありました。

 ここで、“誰に投票するか、何故悩むのだろう?”という理由を考えてみたいと思います。理由の一つに、選挙のことを考える余裕を持てないことが考えられます。単なる時間的余裕だけではありません。日々の生活を維持するためには、先ず目の前の仕事を含む生活上の課題をクリアすることが、何といっても最優先の日常テーマなのです。私の場合、30才台から60才半ばまでの30何年間は、従事していた仕事のことで手一杯でした。仕事の旗を降ろした現在は、選挙を考える時間的余裕はありますが、政治的課題を始めとして、選挙公約を読み解き理解することに四苦八苦しております。心技体が急速に衰えた私には、恥ずかしながら難解な出来事や事象が多くなりました。理解しようという気持ちはありますが、立ち止まる回数が重なって、いつの間にか根気が失せてしまうのが実態なのです。そんなことを考えながら、ここからは私の提案になります。選挙のたびに、面と向かって追求したいと思い続けていたことがあります。前回当選時、声を嗄らして訴えていた選挙公約が、どれだけ実現できたのかということです。ですから、前職と元職の候補者であれば、選挙公約の客観的な自己採点業績通信簿を、私たちのような一般住民にも理解できる内容と表現で公表して頂きたいのです。通信簿の評価や基準・根拠などを含めた公表内容は、その候補者に投票するかどうかを見定める有力な参考資料となるでしょう。新人候補者であれば、漠然とした公約で済ますのではなく、公約実現の具体的方途(6W3Hは必須)と財源を明示して頂きたいと思います。そうすることで、候補者の実行力と本気度が伝わってくるはずです。さらに、信頼度がアップするでしょう。

 時々感じることですが、“如何なものか!”と、嫌みの一つも発したくなることに出会います。選挙運動において、その期間中だけ、誰彼なく頭を下げて、自ら両手を差し出して握手することは、もう止めにしませんか。その代わりとして、月に1、2回で構いませんから、支持者以外の不特定の地元住民と時間をかけてコミュニケートされては如何でしょうか。それも一方的な演説ではなく、傾聴スタンスの対話形式の会合です。そんな息の長い地道な活動の継続こそが、イザという時の強みとなって表れてくると思います。ある地方都市の首長選挙で当選した方は、どれだけの期間かは分かりかねますが、市内各所の道路交差点において、のぼりを掲げて思いを主張し、笑顔で手を振っていました。その姿を何度か目にした知人は、“この人なら、信じて任せられる”と一票を投じたそうです。政治家が頻繁に使う、非常に気になる文言があります。「丁寧に…」、「真摯に…」、「謙虚に…」、「誠意をもって…」などで、何らかの問題が生じた時の会見で発せられる方便です。しかし、言葉本来の意味と実態がかけ離れていると感じることが多いことから、言葉自体に申し訳ない気持ちが溢れてきます。真摯や謙虚という言葉は、私もかなりの頻度で使っています。事なかれ主義的活用を耳にすると、使うことに躊躇してしまいます。もう一つ、傲慢イメージが付きまとう常套句があります。「もし○○○にご迷惑をおかけしたとしたら、お詫び申し上げます」と。「…おかけしたとしたら、…」ということは、「私は、誰にも迷惑かけた覚えはありません」ということの裏返しのように、私には感じられます。いずれにしても、政治家の影響力は、ご自身が思っている以上にかなり高いと思います。日々の言動が至る所で見られているわけですから、どのような美辞麗句を並べたとしても、行動が伴っていなければ、選挙なんてどうでもよくなってくるのも致し方無いような気がします。

 公職選挙法が改定されて、2016年(平成28年)6月19日から、選挙権年令が18歳に引き下げられました。旧知の友人には大学1年生のお子さんがいらっしゃいます。昨年の衆議院議員選挙が初投票でした。高校のクラス担任は、投票することの意味を説いたうえで“白票でも良いから必ず投票しなさい”と言われたそうです。言い方の是非は別にして、意味を説いて行動することを奨励したことに“いいね”を差しあげました。自分の意思を突き付けることのできる一生の権利ですから、行動し続けることを後押しすることに教育の意義を感じたのです。一票を投じることの意味が分かるまでには、いくつもの経験と時間を要すると思います。若人には、投票し続けながら本質を見出してくれることを期待しております。

 今回のエッセイでは、頭に浮かぶことをアレコレ呟いてみました。政治に対する何らかの不信感を抱えながらも、毎回一票を投じています。そこには、たかが一票と思いながら、されど一票という思いが心の根底にあるからです。それ以上に、先の見通せない数々の難題を政治家に押し付けて選挙に行かないでは、民主主義と言えないでしょう。昨年の選挙では、もろ手を挙げて一票を投じたい方には出会えませんでした。投票前日まで悩みながらも、若手で行動力に期待できそうな方、三バン(地盤・看板・カバン)が無くても、公約に共感できる地道な活動を続けていらっしゃる方に、シッカリ一票を投じることにしました。その傾向は60才後半から続いており、今後も大志を抱く若人を中心に後押しする心積もりでおります。読み返してみれば、焦点が定まっていない呟きになってしまいました。政治の世界も、複雑多岐にわたって混沌とした状況です。だからこそ、選挙における一票の価値を認めて、候補者の声に耳を傾ける努力を怠らないようにしたいと思います。

  EDUCOいわて・学び塾主宰/薬剤師  井上 和裕(2025.4.18記)

【参考】エッセイ220回:「再度、人の心を動かすためには……」(2020.8.8記)

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