詩人の茨木のり子さん(故人)は、東邦大学薬学部を卒業されました。薬学を学んだ私にとりましては、大先輩にあたります。
感銘を受けた詩がいくつかあります。初めて出会った「自分の感受性くらい」の一行一行は、私の甘ったれていた心に突き刺ささりました。その記憶は、今でも消すことが出来ないほどです。
“みずから水やりを怠っておいて”、“しなやかさを失ったのは どちらなのか”、“なにもかも下手だったのは わたくし”、ダメ押しは“そもそもが ひよわな志にすぎなかった”と。
そして、“駄目なことの一切を 時代のせいにするな”、締めは“自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ”なのです。
ぐうの音も出ませんでした。ぐうの音も出せないような時期に出会った詩でした。
それ以来、傲慢さが表面化した時、弱気虫が顔を出してやり過ごそうとした時、必ず意識させられる存在になりました。
そうなってからは、仕事でも、日常の私的行動や言動でも、例え1秒しか時間が取れなくても、事の節目節目で、客観的に内省することを、心がけて実行するようになりました。数年を経て内省行為が躾化されてからは、振り返ることの重要性を、つくづく思い知るようになりました。
一番の賜りものは、多くの事象に自然体で対処できるようになったことかもしれません。振り返って考えてみれば、9年半前にスタートした“採用担当者のつぶやきエッセイ”は、そのような心境の変遷の中で育まれてきたように思います。
エッセイは内省のつぶやき
2005年4月にスタートしたつぶやきエッセイは、気がつけば354編になりました。200編までは、回数を目標につぶやきました。回数を意識し過ぎますと、どうしても内容が粗雑になりがちです。内容はダブらないよう、かなり気を配りました。
150編を越えたあたりから、それまでの自分自身の行動や言動を振り返っていることに気づき始めました。振り返るたびに、自分自身の至らなさが明らかになるのです。問題を提起したり、その方途を投げかけようとすれば、他人事では前に進まないことにも気づかされるのです。
ま た、綺麗にまとめあげることに気を配り過ぎますと、他律要因を持ち出しては言い訳してしまうこともありました。
三年前の250編前後からは、私自身の内省を土台にしてつぶやくことにしました。至らなかった自分、至らない自分を素直に認めて、そこを出発点として対処法を導き出すことを心がけるようになりました。
この数年間は、エッセイを続けるプレッシャー(マイナスのストレス)を感じることは無くなりました。ありのままの姿で、等身大でつぶやくことが出来るようになったのでしょうか。
目標必達魂は忘れずに、少しの緊張感と余裕を持ち続けて、目の前の志事と誠実に向き合っていく所存です。振り返ることは、決して後ろ向きな行動ではありません。内省することを、将来ビジョンを描くための前向きな振り返りとして機能させれば良いのです。
※ 当ホームページのエッセイは、354編の中から選んだものを加筆修正して掲載しております。
(2014.9.11記)