エッセイ51:感謝と感動を通して感受性を磨こう!

投稿日:2013年11月5日

 レクイエムという種類の音楽があります。カソリック教会における死者の葬儀のためのミサ曲で、日本語では鎮魂曲と訳されています。
 何人の作曲家のレクイエムが存在するのでしょうか。私には定かではありませんが、その中で聴く機会の多い二人の作曲家のレクイエムを取りあげてみます。
 先ずは、フランスの作曲家ガブリエル・ユルバン・フォーレ(1845~1924)のレクイエム作品48です。46年前になりましょうか、東京薬科大学合唱団時代の第10回記念定期演奏会で歌った曲です。テノールパートは、今でもほとんど覚えています。もう声は出なくなりましたが、口ずさむくらいは可能です。心に沁みる美しさと心をほぐす安らかさは、とりわけ女性団員に人気がありました。手許には三種類のCDがあります。
 一つは、名演の誉れ高いアンドレ・クリュイタンスの指揮によるEMI盤です。独唱は、ロス・アンヘレス(ソプラノ)とフィッシャー=ディースカウ(バリトン)です。二つ目は、ジョン・エリオット・ガーディナー指揮、オルケストル・レヴォリュショネーレ・エ・ロマンティークとモンテベルディ合唱団によるフィリップス盤、そして、ボーイソプラノを起用したジョージ・ゲストとケンブリッジ・セント・ジョンズ・カレッジ聖歌隊のロンドン盤になります。
 もう一曲は、神童と呼ばれるウォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756~1791)のレクイエムニ短調K.626です。これもお気に入りの曲です。
 良く聴くのが、カール・ベームの指揮、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とウィーン国立歌劇場合唱団によるドイツ・グラモフォン盤です。また、CBSソニーから出ているヘルムート・リリング指揮、シュトゥットガルトバッハ管弦楽団&合唱団のCDも所有しております。
 ちなみに、モーツァルトとフォーレ、そしてイタリアの作曲家ジュゼッペ・F・F・ヴェルディ(1813~1901)の作品が三大レクイエムと言われているそうです。今年はヴェルディ生誕200年に当ります。その80分のMESSA DA REQUIEMの演奏会が多いのではないでしょうか。
 
 今回のエッセイ、最近感じていることをつぶやきましょう。

感謝と感動を通して感受性をより深く磨こう!

 今年も、若い方々と共に学ぶ機会がありました。私の三分の一ほどの年齢の方々です。何もかもが未熟であった私の40数年前を思い起こさせてくれます。私にとりましては、年齢に相応しい行動のあり方を学ぶ機会にもなるのです。これからも継続出来ることを願っております。
 また、社会に出て20年になる40歳台前後の方々とも、不定期ながら勉強する機会もあります。その方々は、私の半分近い年齢になります。様々な社会経験を積まれていらっしゃいますから、自分なりの判断力をお持ちの方々でもあります。
 先日、私が担当します3時間ほどのセミナーがありました。社会経験豊富な方々10数名にご参加頂きました。始まって直ぐに、非常に気になることを感じ始めました。
 それは、一緒に学んでいるのですが、砂に水が浸み込むような感覚になれない人たちの存在です。そこを解決しないと、学んでいる意味が無くなってしまいます。学んでいる時間が無駄なだけではなく、考え方や心構えがマイナス方向へと流れてしまいかねないからです。
 のっけから、現状の自分自身の考えや心構えが全てで、それ以外の考えには耳を傾けようとしないのです。発する言葉からは、教えて頂いているという感謝の念は見当たりません。あれでは感動することも明らかに少ないと思いました。何が何でも、自分の発言が正しくて、自分の考えや希望を認めてくれることしか念頭にないのです。何のためにセミナーに参加したのか、不可思議以外の何ものでもありませんでした。
 特に問題だと感じたのが、30歳台から40歳台前半の皆さんでした。かなりの人生経験を積んでいます。それなりの判断が出来る年齢でもあります。しかし、人間ですから、勘違い、間違い、不勉強で知らないことも多くあります。その認識が欠如しているのです。感情的になってしまい、手に負えない場合もありました。

 つくづく感じたのでした。
 日常の出来事、日常の人間関係に対して感謝する努力、感動する努力こそが、何よりも大きなテーマではないかと思えてきたのでした。やはり、行動理論を正すことを繰り返し問いかけることしかない、問い質すことを諦めてはいけないと実感させられたのでした。
 感謝と感動経験を通して感受性がより深くなるのだと思います。磨き上げるためには、長所短所を併せ持った他人を認めることから始めなければなりません。人間同士分かり合えないことがあることも認めながら、認め合う努力をすることから始めなければなりません。それなしに自分のことを認めてください、というのは傲慢で自分勝手と評されても致し方ないでしょう。
 教育担当の使命の一つは、可能性を拓くことです。可能性を拓くコツは、自分自身の足元を謙虚に見つめ直すことです。客観的に棚卸しすることです。そのための努力をし続けるしかありません。挫折感でいっぱいになることも覚悟しながら、感謝と感動を通して感受性を磨きあげる努力をすることを問い質していこうと思います。そのことを自覚させて頂いたセミナーでした。

                                                        (2013.9.10記)

最新の記事
アーカイブ

ページトップボタン