エッセイ48:先師の三つの教え

投稿日:2013年9月20日

 本日は、先師の教えを三つ取りあげました。

我以外皆我師也/歩歩是道場/書を捨てよ、町へ出よう

 先ず、最初は“我以外皆我師也”(われいがいみなわがしなり)です。作家吉川英治氏の造語で、人生哲学を反映した座右の銘として有名です。
 氏の著書では『新書太閤記』に出てくるそうです。「常に、接する全ての人から、必ず何か一事を学び取るということを忘れない」というような表現で出ているようです。
 一般的に言われているのが、同じ氏の作品『宮本武蔵』の、日観と武蔵の会話の場面での武蔵の言葉として引用されています。しかし、『宮本武蔵』の中では、“我以外皆我師也”という形では出ていないとのことです。
 
 二つ目の“歩歩是道場”(ほほこれどうじょう)は、趙州録に出てくる禅の教えとのことです。日本女子サッカーなでしこジャパンの監督を務めていらっしゃいます佐々木則夫氏の座右の銘ということを新聞報道で知りました。
 気になって調べてみますと、もともとの由来は“直心是道場”(じきしんこれどうじょう)という言葉で、“直心”とは、「素直な心、我執のない真っ直ぐで無雑な心」を指すようです。
 歩歩是道場とは、「心がけ一つで、いつでも、どこでも、学びの場になる」という意味に解釈しております。かなりの頻度で問題提起しております「頭の中にある満たされた水を捨てて、謙虚に学ぶことからスタートしよう」と近似であります。

 三つ目は、詩人であり劇作家の寺山修司氏の評論集「書を捨てよ、町へ出よう」の一節からになります。
 それは、“教育は与えるものではない。受け取るものである。そのような視点に立てば、人生いたるところ学校であり、ゲームセンターにも、競馬場にも、映画の中にも、歌謡曲の一節にも、教育者はいるのである”という百文字未満の氏の見解です。
 私が教育担当者の仕事を任された30年近く前、行く手を立ち塞いだ命題に対する自答を模索している時期でした。“教育とは何か?”という命題でした。当時の私にとっては避けては通れない、しかし何とも難解なテーマでした。
 そんな時に出会ったのが、“教育は与えるものではない。… ”という寺山修司氏の見解でした。何を介して出会ったか、定かではありません。目の前の雲間から、光が差し込んできた感があったことを覚えております。

 この三つの先師の教えは、今でも、幾つもの局面で、私の行動指針になっております。
先ずは、頭を空っぽにして受け容れなさい」、「私たちの身の周りには、学ぶ人、学ぶ機会、学ぶ教材が限りないほど溢れています。あなたの考え方、見方、そして行動をちょっとだけ変えてみることで、見え方が違ってきませんか、あり方が変わってきませんか」… 。
 私にとりましては、そのような大切なことを気づかせてくれる先師の教えなのです。

                                                   (2013.7.7記)

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