エッセイ12:百聞は一見に如かず、百見は一験に如かず 

投稿日:2012年3月18日

*このエッセイは、平成22年7月に書きあげたものです。

前文と本文の一部をご紹介させて頂きます。

ある年齢に達してから、個々の社員の呼び方に対して、都度問題意識を感じたり、また、私なりの思いが、頭の片隅にこびり付いていたのです。ある方のある言葉がきっかけで、新卒新入社員に対しては、基礎教育期間中の全ての研修に限ってだけ、全員に対して下の名前で呼ぶことにしました。平成20年4月のことでした。

そう決めた理由は、一つだけではありません。その理由を明かすことは別の機会に譲るとして、後押ししてくれたある方が村内先生でした。

村内先生は、重松清さんの『青い鳥』(新潮社版)に登場する中学校の臨時教師です。

“人間は、おとなになる前に、下の名前で呼んでくれる人がいなければいけないこと”、“誰でもいいから、そのような人がそばにいるということは、一人ぼっちではないこと”、そして“誰もいないのであれば、先生が呼んでやる”……。吃音の村内先生が、汗をかきながら、一所懸命になって、つっかえながら発した言葉の一部です。心の底からの言葉だ、と思わずにいられませんでした。

さて、雫石町の玄武洞までドライブしました。どのような光景でも、聞くのと見るのとでは大違いです。ドライブをしながら気づいたことを、今回のつぶやきとします。

見たことは覚えます、体験したことは理解できます

“百聞は一見に如かず、百見は一験に如かず”

後半部分の“百見は一験に如かず”は、私流の造語だと思っております。“なぜロールプレイングなのか?”、という理由付けのために考えついた表現の一つです。今、その意味を、もっと掘り下げてみたいと思います。

“百聞は一見に如かず”というのは、現実の戦場において、戦争を目の当たりにした方が、思わず発した言葉だそうです。

このことは、「聞いただけではよく分からないし、時間が経てば忘れてしまう」ことを教えてくれます。続けて、「見たことは、シッカリ目に焼きついて覚えている」ということを示唆してくれます。

もう一つの“百見は一験に如かず”を、さらに推し進めて考えてみますと、「見ただけでは本質はなかなか分からないけれども、実際に体験したことは理解まで行き着く」ということを気付かせてくれます。私にとって、まさに実感できることでした。

そのようなことが分かってくると、教育機会におけるカリキュラムの編成のあり方や進め方も、知恵が求められます。しかし、何でもかんでも“見る”“体験させる”でも、問題が出てきます。目的は、一人ひとりの好奇心や感受性、そして探究心を引き出すことにあります。そこに導くためのプロセスをシッカリと編成して実践するような、日々の努力を続けなければなりません。

残念ながら、この10年間、そこまで意識した教育機会に出会った記憶が、ほとんど残っておりません。結局は、教育担当の育成こそが喫緊の課題なのです。だから、繰り返して問題提起しているのです。

最新の記事
アーカイブ

ページトップボタン