ある時、卒業式で歌われなくなっているという「仰げば尊し」の原曲と思われる曲が、19世紀に米国で作られた「SONG FOR THE CLOSE OF SCHOOL(卒業の歌)」であることが判明した、ということを知りました。その「仰げば尊し」、あまり歌われなくなったのには理由があるのでしょうが、旋律といい、日本語の歌詞といい、心に響くものがあります。場の雰囲気にふさわしい曲に感じます。私の年代の卒業式の定番ソングでした。音楽の先生のピアノ伴奏で唱和したものです。
そのニュースに触れながら、同じ19世紀の英国の哲学者・教育学者ウィリアム・アーサー・ワードの至言が、ゆっくりと頭の中を回っていました。
私の四半世紀にわたる教育担当者として、部下を持つマネジャーとして、常に持ち合わせている行動指針です。なかなか追い着くことは叶わないのですが、常に意識し続けている行動指針なのです。
凡庸な教師はただしゃべる。
良い教師は説明する。
優れた教師は自ら示す。
偉大な教師は心に火をつける。
これが、ウィリアム・アーサー・ワードの言葉です。
私は、“教師”を、教育担当、人事担当、部下を持つマネジャーなどにも置き換えております。
“凡庸な教師”は、平凡な教師とも言えます。「ただしゃべる」というのは、相手が変わっても同じように一方的に話して終わり、ということを指すのではないでしょうか。“良い教師”というのは、凡庸な教師よりはずっとましな教師でしょうか。「説明する」ということは、理解させようと努めることを課しているのでしょうから。「自ら示す」は、自らやってみせること、例を示すこと、範を示すこと、なども含めると解釈をしています。長い間、努力してきたことは、胸を張って言うことは出来ます。“偉大な教師(The great teacher)”は、本当に優れた教師のことを指していると思います。「心に火をつける」とは、やる気を引き出すことであり、鼓舞することになります。正に、教育の語源であるEDUCOのことです。そして、その火は行動変革へと受け継がれていかなければなりません。
このワードの言葉は、私の不易の心構えとして、自戒・自省の行動指針として存在しております。そして、人の心に火をつけるためには、力のある言葉を学びとり、心に響く話し方で、全力投球することを忘れてはいけない、と肝に銘じております。問いかけ続けること、問い質すことを忘れてはいけない、と心に刻んでおります。
(2011.3.1記)