エッセイ276:一期一会は不易の心構え

投稿日:2023年4月5日

 この数年間、私の心に引っかかっているやり切れない言葉がいくつもあります。代表的なのが、“フェイク(fake”です。もうウンザリします。最近では、コロナ禍以前は気にならなかった“後期高齢者”という言い方に、違和感を覚え始めております。高齢者にとって、後期の裏には“あの世行き予備軍”という文言が張り付いていると解釈できなくもありません。ひがみ根性かもしれませんが、持病持ちの比率の高い後期高齢者にとって、どうしても前向きになれない表現のように感じる昨今です。致し方のない単なる公的共通用語と、笑うようにしております。

 また、マスコミに登場する機会の多い著名人の無神経・無遠慮な強弁、自己保身のあいまいな言い回し、責任転嫁と感じられるおとぼけ風発言が、相変わらず平然と歩き回っています。これが世の中の常態であり、未来永劫続いていくのでしょう。しかし、何らかの問題提起を止めたくはありません。声が届かなくても、声が消されそうになっても、諦めることなく声を挙げる“あの世行き予備軍高齢者”でありたいと思います。今回のエッセイは、新型コロナウイルス禍だからこそ強く意識した“一期一会”を取りあげてみます。

一期一会は不易の心構え

 どなたもご存知だと思いますが、改めて一期一会の意味を復習してみましょう。一期とは、人間が生まれてから死ぬまでの一生涯のことを言います。一会は、一つの集まりのことで、例えば、一人の師匠の下に集まる会自体を一会と呼ぶそうです。

 一期一会は、茶道に由来する四字熟語で、“茶会において、全ての客を一生に一度しか出会いのないものとして、亭主も客も誠意を尽くしてもてなせ”という心構えを意味します。その原型は、千利休の高弟、山上宗二の著書「山上宗二記」の中の「茶湯者覚悟十躰」に、利休の言葉として“常の茶湯なりとも、路地へ入るより出づるまで、一期に一度の会のように亭主を敬い畏べし”という一文を残しています。さらに、江戸時代末期の近江彦根藩主で幕府大老の井伊直弼が、茶道の心得「茶湯一会集」の巻頭に一期一会と表現したことで、茶道の重要な心構えとして述べられています。現代においては、“日々の出会いの時間は、二度と巡ってこない一度きりの時間という気持ちで接すれば、新鮮で最高のおもてなしが実現できる”ということに行き着くと思います。

 この一期一会の意味は知っていますが、“どれだけ意図して行動しているか?”と問われたら、下を向いて言葉になりません。YESと胸を張れそうなのは、ほんの数回ほどかもしれません。そんな私に人生一期一会の意義を認識させてくれたのが、今でも続く新型コロナウイルス禍中になります。この3年間の生活で大きな変化があったとすれば、それは直接対話の機会が大幅に減少したことでしょうか。社会人になって半世紀以上も経ちますが、家族を含めて、多くの先輩・同輩・後輩のお世話になりました。その方々に対して、特に先輩に対して、“どれだけの失礼・無礼を重ねたことか!”と、赤面を覚える自分の姿が浮かんできます。そんな自身の至らなさを悔いながら、一期一会の心が分かるような年齢になったのかもしれません。“あの人どうしているかな?”、“あの時、もっと尽くしておけばよかった!”という思いが、時々目の前を通り過ぎる直近の1年間になります。

 今回、一期一会を強く意識するようになって、このような思いを感じています。不惑の年令に達したならば、一期一会の意義を復習して頂きたい。納得したならば、具体的な処し方例をいくつか考えることです。お会いする目的やTPOSによって、おもてなしのあり方も変わってくるからです。ただし難しく考える必要はないと思っています。私は、これまでの失敗を裏返しにしております。後は、日常の出会いの中で意識して実践するだけです。76才からの提案でした。

      人財開発部/EDUCOいわて・学び塾 主宰 井上 和裕(2023.2.15記)

 *TPOS:Time(時間)、Place(場所)、Occasion(行事・場面)、Style(生活様式)

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