エッセイ232:VIVA LA MUSICA(音楽万歳)

投稿日:2021年6月19日

 私は、音楽がだ~い好きです。歌詞のついた音楽がだ~い好きです。好きになったきっかけが何であったか、いくつかのことを思い起こしております。

 小学校に入る前から、流行りの歌謡曲を思いっきり歌っていました。来客から褒められた記憶も残っています。小学校高学年のクラス担任が音楽の先生で、かなり影響を受けたような気がします。隣接するMK高校吹奏楽部の音色に魅了されたのが、中学生の時でした。高校にあがると、勉強中の気分転換にラジオから流れる音楽番組を聴くのが流行りでした。私の場合は、ビートルズ、クリフ・リチャードなどのポップス、ブラザース・フォアやPPM(ピーター、ポール&マリー)のアメリカンフォークソングが、当時のお気に入りだと記憶しております。ビートルズがデビューした時代です。その頃、持ち主不明でしたが、古びたギターが家の中にありました。教則本を購入して、コード伴奏ができるように自力訓練したことを思い出します。そのようないくつもの出来事や体験が混ざり合って、気がつけば“音楽だ~い好き”になっていたということでしょうか。それらが、大学入学後の合唱団入部(*1)に至ったことは、当然の帰結だったかもしれません。

 エッセイのねらいから脱線しますが、私の大好きな音楽の思い出を、思いつくまま掘り起こしてみたくなりました。そこから見てくるある行動指針につながってきそうです。

VIVA LA MUSICA(音楽万歳)

 NHK・BS1の“駅ピアノ”・“空港ピアノ”・“街角ピアノ”などの○○ピアノが、私のお気に入り番組の一つになりました。醸し出す雰囲気に温かさを感じるのです。気負いの無い自然感は、“音楽って良いなあ”という感覚にさせてくれます。心の安定剤と申しましょうか、穏やかな空気が心を埋め尽くしてくれます。そんな気分に浸りながら、チョッピリ羨ましい気持ちが顔を出すことがあるのです。その羨ましい気持ちの紹介からスタートしましょう。

 それは、30歳半ば頃だったと思います。ピアノを弾きながら歌うことが、将来の夢の一つになりました。誰かに聴かせるというのではなく、生涯大好きな音楽を楽しむ道は“これしかない”と強く感じたのです。ですから、定年間近で余裕の持てる年代になったら、ピアノ教室に通うという思いへと発展しました。そのような夢を意識したのは、あるテレビドラマの主題歌がきっかけでした。1981年(昭和56年)に日本テレビ系列で放映された“池中玄太80キロ”の主題歌「もしもピアノが弾けたなら」(詩:阿久 悠作詞/曲:坂田 晃一)です。歌うのは池中玄太役の西田敏行さんでした。タタタタタ~~ン、タタタタタ~~ン …… の出だしのピアノ伴奏を耳にすると、弾き語りする心地良いイメージが頭上を駆け巡ったほどです。しかし、54才で自由定年退職を選択し、人財育成の仕事を生涯現役で取り組むことにしました。ピアノ教室通いを諦めたわけではありませんが、私には両立するだけの意志と行動力が無かったということになります。

 話を、いわゆるストリートピアノに戻しましょう。何よりも、鍵盤に向かう姿から、皆さん音楽が大好きなのだと感じさせてくれます。一人ひとりの Favorite Musicで、その時の心情を素直に表現しているのが伝わってくるのです。あの人のために、あの出来事のために、…… その思いや対象は様々でしょう。はにかみ気味の穏やかな表情から、その奏でる音楽が、一人ひとりの珠玉の宝物のように感じられるのです。そんな私の感受性は、50年以上も前のある場面を思い出させてくれました。半世紀前の昭和43年(1968年)のことではありますが、私の心の中に鮮やかな記憶として残っている景色なのです。モノクロではなくカラー映像として… 。

 当時の私は大学4年生でした。東京薬科大学で薬学を学びながら、同大学合唱団(以下、東薬合唱団)に所属しておりました。東京薬科大学薬学部合唱科在籍と揶揄されるほど、在学中は合唱音楽に熱中しました。その4年間で出会った仲間との共有財産となる取り組んだ合唱曲が、“私は音楽がだ~い好きなのだ”という道へと導いてくれたのです。東薬合唱団には、団創設以来歌い継がれてきた数多くの愛唱歌(Favorite Song)があります。見ず知らずの先輩とも、肩を組んで歌える共有財産です。今では歌われなくなった曲がほとんどのようですが、仲間との絆を確認できる愛唱歌は10数曲以上にのぼります。それらの曲のいくつかは、今でも空(そら)で歌えます。混声四部合唱であればテノールパート、男声四部合唱ではセカンドテノールパートを、楽譜無しで歌えるということです。そのことが、“私は合唱が大好きだ、音楽が大好きだ”という証左の一つであり、私の密やかな自慢になります。

  当時の愛唱歌は、演奏旅行のステージ曲でもありましたが、歌うことが圧倒的に多かったのは、次のような機会だったと記憶しております。新入生歓迎会、親睦会など毎月の行事、慰労会・打ち上げの場などでは、自然発生的に歌われました。春(3月~4月)と夏(8月)の4泊5日の合宿時には、合宿地の最寄りの駅頭で数曲ハモる(*2)ことが定番でした。そんな時の皆の歌う表情から、合唱することの幸せ感が表れてくるのです。そのような機会の中で、今回私が思い出したのは、昭和43年秋の出来事です。当時の東京薬科大学は、男子部と女子部が分かれていました。男子部は新宿柏木(最寄駅:JR大久保駅・新大久保駅)、女子部が上野桜木町(最寄駅:JR上野駅・日暮里駅)に校舎を構えており、入試も授業も別々でした。合唱団の練習は、30分のパート練習を月~土の週6日、アンサンブルという全体練習が水(17時~19時)・土(14時~17時)の週2日だったと思います。アンサンブル会場は、男子部と女子部の講堂を交互で使用しました。通うだけでも、電車と徒歩で片道50分を要したでしょうか。その移動時間は、上級生と下級生の連携を深めて密にするコミュニケーション道中となりました。これも懐かしい思い出の一コマですね。上野桜木町にある女子部での練習後は、多くの団員が上野公園内を歓談しながらJR上野駅上野公園口を目指します。11月8日(金)の第12回定期演奏会に向けての練習が佳境に入った初秋の夕暮れ時、上野公園内の噴水前で愛唱歌を合唱したことが何度かありました。一曲歌い終わると、団員内から催促のリクエスト曲の声があがります。その時の一人ひとりの表情が、おぼろ気ながらも浮かんできました。みんな合唱が大好きなのです。東薬合唱団が大好きなのです。ストリートピアノの画面から、半世紀前のあの至福のひと時が、もっともっと歌い続けたかった薄暮のひと時が、沁み出すように蘇ってきました。その当時は気付いていませんでしたが、10数曲の愛唱歌は、在籍していた仲間の絆だったのです。卒業後は、同輩・後輩の何人かと、当時の指揮者のもとで合唱を続けました。それぞれの仕事の関係で長続きしませんでしたが、東京マドリガルシンガーズ結成という声があがったこともありました。

 10数年以上も前から、新社会人の方々に対しては、“決めたら行動しよう”という行動指針を強調しております。それは私自身の後悔がそうさせているのかもしれません。大好きな合唱音楽のことを振り返って、「思い立ったが吉日」だと実感しております。行動しなければ手に入れることはできません。後悔には二種類あります。やらずに後悔するのではなく、やって後悔する道を選んで欲しいと願っているのです。やって後悔する道は、PDCAサイクルをスパイラルアップする道ですから、決して悔いることではないのです。

 最後に、VIVA LA MUSICA(音楽万歳)!              

                               (2021.3.28記)

   人財開発部 井上 和裕(EDUCOいわて・学び塾主宰)

【*1】合唱団入部:当時は入団ではなく、入部と表現していました。部活動からきていると思います。【*2】ハモる:“ニーす”の略語。

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