17年ほど前になります。2003年(平成15年)10月27日(月)の日本経済新聞に掲載された新聞広告に目が釘付けになりました。社団法人日本新聞協会の全面広告で、「新聞広告を広告する」新聞広告コンテストの最優秀賞が掲載されたのです。1月1日の“あけましておめでとう”から、12月31日の“よいお年を”まで13の記念日が紹介されており、今でも保存しております。“日付をつけると、コトバは強くなる”という文言が添えられ、最後に“伝えたいこと、日付にのせて。 新聞広告”で締めくくられていました。この新聞広告を目にした瞬間、“研修カリキュラムとして企画してみよう”という思いが、間髪入れずに溢れ出てきたのです。今回のエッセイは、その企画の経緯、そしてメリットを考えてみたいと思います。
私の記念日カレンダーから教えられたこと
54才で転職してから4年目でした。社団法人日本新聞協会の全面広告のアイディアをお借りして、私のMY記念日カレンダー作りに着手しました。着手した理由は忘れましたが、その当時の思いが蘇ってきたのでしょう。何かピーンと感じるものが、再沸騰してきたのだと思います。初版のMY記念日カレンダーは、数年おきに見直しては作り直しました。その後、『MY記念日作成プロジェクト:私の記念日~伝えたいことカレンダー』を社会人2年目研修のカリキュラムにしたのです。先ず、1回目のプロジェクトの冒頭での問いかけから紹介しましょう。
私の72年間の人生では、思うような結果に至らなかったこと、思いもよらなかったこと、思いがけなかったこと、思わず飛び上がったこと、思い出したくないこと、どうにも耐えられなかったこと、決して誰かにやってはいけないこと、…… 。多くの出来事がありました。また、愉しかったこと、嬉しかったこと、充たされたこと、想像以上の結果に恵まれたこと、勇気づけられたこと、有難かったこと、希望を与えて頂いたこと、…… 。そんな、心を豊かにしてくれる出来事もありました。それらの中には、今の私の年令だからこそ判ることがあります。意識するしないに関わらず、日々の言動には必ず理由があるからです。理由があるという意味では、“(先ほどあげた)出来事一つひとつをどう感じるのか、どう受け止めるのか、どう受け容れるのか”も同じではないでしょうか。必ず理由がある、訳があるということです。だから、その当時計り知れなかったことが、時間をおいて判ってくることが多くなるのです。
冷静な気持ちで、私の72年間を振り返ってみれば、それから以降の私の生き方に影響した出来事、特に背中を押して一歩先へ進めてくれた出来事、心を潤してくれた出来事、挫折や消極姿勢を包み込んで支えてくれた出来事が、いくつも記憶の底から掬い上げることが可能になります。皆さんのこれからの人生は、紆余曲折の旅でもあります。出来る限り有意義な旅を自己実現するために、乗り越える何らかのキッカケを用意しておくことが、行き詰まった時のレジリエンス(復元力)になるのではないでしょうか。そこで、強くお奨めしたい私からの提案があります。そのような出来事を、あの日あの時のMY記念日として制定してみませんか。日付に伝えたい言葉をのせるのです。今日その第一歩をスタートさせて、長い人生の中で一生涯のMY記念日を増やしていけばいいのです。そんなスタンスで、オリジナルMY記念日カレンダーを作ってみませんか。それも、一生かけての作品作りに一歩踏み出してみませんか。(EDUCOいわて・学び塾:井上 和裕/2019.1.15記)
20歳代半ばにMY記念日カレンダーを作成し、数年おきに版を積み重ねるように提案しました。どのように受け止めているのか、今の段階で評価することはできません。20年以上経ってから、一人ひとりが判断することだと考えております。MY記念日作成プロジェクト立ち上げに際して、72才の私のMY記念日カレンダーをゼロベースから練り直してみました。第5改訂版になります。悩みあぐねた末に、23の記念日を制定し、その一つひとつに、終活のつもりで、私の正直な思いを籠めた文言を絞り出してみました。
1番目の1月1日は、シンプルに“Happy New Year。良い年にしましょう”です。4月1日“WELCOME いのうえ塾へ。自ら学び、考え、行動する。基本修得の三年間に!”、10月8日は“これから1年間の目標は……”、11月8日“原点ここにあり”、12月31日“今年も楽しい一年間でした。良い年をお迎えください”、という具合です。3月11日だけは、空欄にしています。時間をかけてじっくり考えました。結局、今回も決めることが出来ませんでした。23記念日の内訳は、家族に関する記念日が13日、仕事関連が5日、その他5日になりました。家族との記念日が半分強を占めています。私を一番支えてくれた家族への気持ちの強さは、これからも変わることがありません。どの記念日も、目いっぱいの感謝や祈りの文言で飾りました。
エッセイ223回のテーマは「私の記念日カレンダーから教えられたこと」でしたね。ここからが本論となります。改訂5版になる私の記念日カレンダーの思考作業は、72年間、取り分け生まれ故郷を離れてからの50数年間を見つめ直す旅になりました。見つめ直したことで、それまで心の奥に閉じ込めていたある出来事と向き合うことができたのです。実を申せば、それらの出来事が、これまでの私の生き方の核心的要因であることを、この年齢になって教えて頂いたことになりました。その一つが、その他に分類した11月8日です。学生時代、勉学以上に熱中した部活動(東京薬科大学合唱団)のことです。昭和43年11月8日(金)は、団執行部として1年間の集大成となる学生時代最後の第12回定期演奏会でした。全五ステージの第三ステージは、選曲から仕上げまで学生自身の手で挑んだ混声合唱曲「岬の墓」(詩:堀田 善衛/曲:團 伊玖磨)でした。一年間全てを注いだ私にとって、その演奏は絶望的な不完全燃焼で終わりました。ステージに上がった70数名の想像を絶する熱い思いが、沸騰点を越えてしまったのです。ピアノ伴奏より半音以上(当時はそう感じました)シャープしたのです。伴奏音と合わないハーモニーが落ち着いたのは第2主題(残り3分の1程)からでした。その間、私は殆ど声を発することが出来ませんでした。翌9日から、授業、卒後の就職、薬剤師国家試験など一切頭に入らず、独りよがりな腑抜けの状態が続きました。固い殻に閉じこもり、やる気すら起きない状態だったのです。多くの仲間とも距離を置くようになりました。今回のカレンダー作成を通して、30歳後半まで不完全燃焼状態がトラウマの如く続いていたことに、改めて気づかされました。そうなっている原因を他律要因のせいにして、そんな状況から立ち直ろうとしなかった自分の存在が明らかになったのです。ある意味、無駄で無為な時間を10何年間も費やしたことになります。何とも情けない話なのです。そんな私に喝を入れて、そこから脱する導線となったのが、昭和63年4月12日(火)と平成2年8月20日(月)でした。この二つの記念日を通して、何年も引きずっていたマイナス思考、従属的依存意識、安全第一主義、劣等感などから、徐々に抜け出すことが出来たことを実感しました。30歳後半までの不完全燃焼状態の要因は、私自身の未熟さであり、行動理論の狭小さが全てだったのです。ごく最近まで、そのことに心底気づいていなかったように思います。薬学生による「岬の墓」という超難曲への挑戦は、怖いもの知らずのアマチュアだからこそやれたのです。当時の演奏音源を、20年ぶりに聴きました。心を静めて聴き直しました。目指していたメンタルハーモニーが、よどみなく揺れ動いているのです。長い時を経て、私にとっての名演に気づいたのでした。
改めて総括すれば、抜け出した一番の要因は、“私の人生には後がない。だから目の前の任務をキチンと果たそう”と覚悟したからでした。以来、人事教育の仕事に没頭し、志事に姿を変えて現在に至っております。私の生き方の根源に多大な影響を与えた出来事が、11月8日、4月12日、8月20日のMY記念日なのです。『ここからが本論となります』以降の私事は、意味が通じない内容だったかもしれません。申し訳ございません。
まとめにしたいと思います。申しあげたかったことは、タイトルにあります「私の記念日カレンダーから教えられたこと」の人生観に対する影響度合いに鑑みて、私の記念日カレンダー作成を提案したいのです。以降の人生のあり方を明らかにする格好の機会だとつくづく感じているからです。それが私の本心でした。
井上 和裕(2020.9.5記)