*昨年(2020年)8月に脱稿したエッセイです。
ひと月もすれば74才の声を聞くことになります。この3年間、思わしくない体調が続いています。明らかな病名がつくものから、診断では原因が見当たらない症状まで、いくつもの身体の不具合を感じているのです。今年は、年初からめまいに悩まされていました。脳と耳周りのMRI検査をして頂きましたが、結局、確たる原因は明らかになっていません。さらに、40数年前に治療した奥歯が疼いて、とうとう抜歯することになりました。満足に食事が出来るようになるまで、ひと月以上要したと思います。そして、新型コロナウイルスです。今でも精神的にかなり参っています。コントロールできていない自分自身に情けなさを感じていますが、リラックスして上手に付き合う努力を続けたいと思います。
50才代までは、このような状況など想像できなかった、というのが正直な気持ちです。20年前であれば“年々身体の衰えを感じるなぁ”程度でしたが、最近では感覚が狭まって“月々衰えを感じる”というレベルに達しました。正社員時代であれば、仕事優先が当たり前でしたから、身体の衰えの変化にまで気が回らなかったはずです。定年後も切れ目なく仕事を続けているからでしょうか、何年か前までは、さほど実年齢を意識することはありませんでした。しかし、この3年間の体調の不具合を鑑みれば、現状(年齢と体調の関係)をキチンと理解し受け容れた上で、“これからの人生をどう生きていくのか”明らかにしておきなさい、ということですね。そんな中で、筋力を維持するためにウォーキングと簡単なストレッチは、可能な限り続けております。ウォーキングといっても散歩程度ですが、歩きながらの人間ウォッチングで小脳力の衰えをカバーすることを楽しむことにしました。歩数の目安は、一日六千歩です。この半年間は、新型コロナウイルスの影響でウォーキングの頻度が減ってきました。
今回のエッセイは、ウォーキングの人間ウォッチングで気づいたこと、感じていることを、ブツブツと呟きたくなりました。これから呟くテーマが何であれ、心身ともに健康であることの有難さを、しみじみと感じております。健康のことを気にすることなく日々生活していた時代に、頭を垂れて感謝することを怠ってはいけませんね。
少しの心のゆとりがあれば、同じ景色でも映り方に変化が出てくる
ゆとりと言えば、ゆとり教育や脱ゆとり教育を思い出します。そのゆとりというは、どこか芳しくないイメージになりましょうか。しかし、高齢者の日常生活にとって“ゆとり”の意識と行動は、日々の生き方の基本だと認識するようになりました。散歩に近い私流のウォーキングでも、目標歩数以外には、ゆとりある感覚と行動を意識しております。何かにつまずく、足がもつれるなど、転倒して骨折に至る高齢者を見聞きするからです。もう一つは、小脳力の衰えをカバーすることを楽しむ術としていることもあります。余裕を持って歩きながら、私の身の回りの様子やすれ違う方々を観察(失礼)し、そこから学び考えて何らかの結論を導き出すということです。そうすることで、それまで素通りしていたことから教えられることがあります。漠然とした知識が、より深まってきます。そのような経験が積み重なって、それまでと同じ景色であっても、その映り方の引き出しが増えていく感覚がしてきます。また、ただ漫然と歩数を刻むだけでは、ウォーキングも長続きしそうにありません。それでは、気づいたこと、感じたことを申しあげたいと思います。
信号の無い横断歩道での自動車の一時停車率は?
私の自宅近辺はバスや車が通る道路に面しており、母校である盛岡市立仁王小学校児童の通学路になります。その通学路には信号の無い横断歩道が数か所あります。私が運転する時、横断者がいれば、必ず横断歩道の手前で停車します。多くの児童は、渡り終えたら振り返って、丁寧に一礼してくれるのです。“有難うございました”の声を添える児童もいらっしゃいます。
日本自動車連盟(JAF)は、信号の無い横断歩道での停車率を毎年調査しています。2019年の調査によれば、全国平均が17.1%、最高が長野県で68.6%、最低は三重県3.4%という結果だったそうです。これまで、自動車運転者のマナーの悪さを、何度か問題提起してきました。その一つが、信号機の無い横断歩道で停車する車の少なさです。ウォーキングしながら、何度かその実態を調べたことがあります。停車してくれたのは、JAFの全国平均停車率よりも下回っていたと思います。5台に1台以下の割合でした。手を挙げて横断の意思表示をするのですが、視線が合いながら、素通りする車の方が多かったですね。年代や性別の傾向もありそうな気がしております。
道路交通法は、歩行者最優先です。そして、この横断歩道の停車率は、社会の成熟度のバロメーターとも言われています。停車した運転手に一礼をする子供たちは、なかなか停まってくれない大人を何と思うでしょうか?その都度、私は悲しい気持ちになるのです。
歩きスマホは止めて頂きたい
自転車のながらスマホ、歩きスマホが、特に気になった時期があります。歩きスマホ同士が正面衝突した場面に、何度か出会いました。お互い悪びれる様子もなく、“ゴメンナサイ”の一言もなく、そのまま立ち去って行きました。歩きスマホに夢中の女性を避けた時、上目遣いでジロッと睨まれた経験が一再ならずあります。自分ファースト、自分優先が、当たり前の行動規範になってしまったのでしょうか。
上京すれば、必ず電車を利用します。半数以上の方が、スマホを操作されています。そんな中で、本を開いて読書されている方を見かける時があります。旧人類の私には、何とも言えない親しみと懐かしさを感じる瞬間です。そんな電車内の風景も、新型コロナウイルスの影響で様変わりしていることでしょう。
冬の除雪に一言申したい
冬時の除雪は、私の日課の一つになりました。日課と言っても毎日ではなく、降雪した時に必ずやるという意味です。自宅の敷地内は当然として、自宅前の公道も除雪します。自宅敷地から1㍍ほどの範囲でしょうか。“歩行者が通り易いように”という、遠い昔から受け継がれてきた隣近所の暗黙の伝統だと思います。
自動車の走行に影響するほどの大雪の場合、ブルドーザーが大活躍します。自宅前の道路は、歩道が無いに等しい片側1車線です。自宅敷地近くに、除雪された雪が山積み状態になります。その雪を敷地内に運ぶのですが、難儀するのは湿り気の多い雪質の場合です。私の地域では、夜間の除雪作業が多いために、湿り気の多い重い雪はカチンカチンに凍ってしまい、私の力では動かすことが出来ない重さの塊になります。そこまでは致し方ないとして、こんなことがありました。公道から1㍍ほどの自宅敷地内の植木が、除雪された雪の重さで折れていたのです。何故そうなったのかは不明ですが、チョッピリ感情的になってしまいました。行政によって除雪された雪隗を、私が敷地内に運ぶのは、歩行者が少しでも通り易くするためです。行政の除雪は、車最優先の除雪になります。優先順位は致し方ないとして、弱者(この場合は歩行者)のことも考えて欲しいと思いたくなることがあります。道幅の狭い公道では、除雪の影響で歩行者が安心して歩けるスペースはありません。私の自宅近くには、視覚障がい者の施設があることから、もう少し弱者優先の除雪ができないものか?“行政の除雪作業は車最優先の表現だ”という実態への抗議の気持が、年に数回は顔を出すのです。除雪作業は時間との勝負でしょう。そんな些細なことに構っていられない、というのが本音なのでしょうか。理由を拝聴したくなります。
それら以外にも、狭い歩道を我が物顔で通り抜ける自転車、ルール無視が当たり前の自転車、ごみ(マスク、包装紙、ティッシュなど)・空き缶・ペットボトル・吸い殻のポイ捨てなど、一言申し上げたいことがいくつかありますね。
ここからは、今回のエッセイのまとめです。精神的な心のゆとりは、自分以外の他の人を思いやる情況を、少しでも多く作ることが出来ます。お互いの立場を認めて、お互いがほんのチョットだけでも、相手を思う比重を高くして接することを可能にしてくれます。相手:自分=51>49位が丁度いいのです。日常では、そのような考え方が、心の健康を保ってくれそうです。その結果、学びの数も自分自身を見つめ直す機会も増えていきます。私のウォーキングは、結局人のふり見て我がふり直す機会なのです。筋力維持との一石二鳥です。さらに、一石三鳥にも一石四鳥にもなりそうに感じております。
井上 和裕(2020.8.21記)