エッセイ211:“向き合う”ということは、……

投稿日:2020年8月5日

   ※エッセイ211回は、2020年2月28日(金)に脱稿したエッセイです。

 エッセイ180回(2018.12.10記)は、“2018年は、体調の芳しくない年でした。…”で始めました。実を申せば、2019年も5月以降から同じように芳しくない体調の年でした。同じようにと言うよりも、一昨年よりレベルがかなり上の体調の悪さになりました。自覚症状の程度評価は、一人ひとり異なるでしょうし、悪さ加減を気にされない方だっていらっしゃいます。5年ほど前から、薬剤師を始めとした医療従事者に対して、古希を過ぎた一高齢者が感じている病状とその時々の気持ちを、些細なことも含めて率直に投げかけております。その理由を呟いてみましょう。

 病状や気持ちを投げかけることで、“患者がキチンと聴いて欲しいこと、本当に知りたいこと”の巾を、もっと拡げて頂きたいのです。患者や生活者に対する問いかけの引き出しを増やして頂きたい、と感じることが多いからなのです。そう感じるのは、患者としての私の質問に対する医療従事者の回答に、納得できないことや不満があるからと言えましょう。多くの患者を相手にされてますから、些細と思われることに一々かまっていられないという声は理解できます。食事時間さえ確保できないほど多忙であることから、時間的余裕が持てないのが実態なのでしょう。ですから、あまり我がまま言えませんが、時と場合によっては、もっと“私の話を聴いて欲しい”、“向き合って欲しい”と感じる場合もあるのです。いずれにしても、限られた時間の中で、その時々の状況に応じた患者満足・生活者満足を如何に実現していくのか、永遠に試行錯誤しなければならない命題だと思います

 私が主宰しております第22回学び塾(2018年10月21日)では、7年半前(2012年夏)の手術入院時の出来事をまとめた『私の入院想語・療養想語』を教材にしました。“井上さんが手術入院した時の経験から、患者のその時々の正直な心理状況を知りたい”という要請があったのです。10年近く前から、医療現場で仕事をしている薬剤師数人からの依頼でした。その時に感じたことを思い返しております。社会人なってからしばらくの間、目の前の仕事や出来事に対処することで精一杯だった皆さんが、“人の話をキチンと聴くこと、貴重な体験談から学ぶことの大切さが理解できる年齢になった”という実感でした。それは、“患者や生活者から学ぶことの必然性が腹に落ちてきた”こと、“周りのことを、客観的な視点で観ることが出来るようになってきた”ことを意味します。自分自身の仕事とキチンと向き合えるようになった姿に、かなりの成長度合いを感じました。このような変化には、諸手を挙げて拍手を贈りたいと思います。

 私が社会人になった半世紀前は、情報を収集することに、多大な時間と労力を要する時代でした。欧米に追いつけ追い越せの時代(いわゆるキャッチアップの時代)でしたから、目の前の問題・課題を受け止めて、逃げずにやり通すことが基本作法でした。向き合って対処することは当たり前の時代だったのです。今の時代、ハード面ソフト面を含めて、仕事環境は様変わりしました。仕事のあり方や作法が大きく変わりました。しかし、目の前の問題・課題と“キチンと向き合うこと”は問題解決の不易の基本であることに変わりありません。それが私の見解です。しかし、掘り下げて考える、逃げずに追究する姿勢が、見られなくなりつつあるように感じています。今回のエッセイは、私がよく使う“向き合う”ということのあり方を、あれこれ呟いてみたいと思います。

 

“向き合う”ということは、……

 いつ頃から“向き合う”ことを強調するようになったのか、振り返ってみましょう。定かではありませんが、もう10数年前からのような気もします。それがどうであれ、事あるごとに取りあげるようになりました。その頻度が上がり、繰り返して使うようになりました。先ずは、その経緯や理由についての私見を、簡単に触れておきたいと思います。

 平成に入ってからの約20年間は、特にスピードと改革が求められる時代でした。日本経済全体は、右肩上がり成長の幕が下りて、その反動からか目先の利益や効率が求められるようになりました。即効性・即応性・利便性が何よりも優先され、組織運営も仕事の進め方も、それらのキーワードがプライオリティの上位を占めた時代だったと認識しております。私の主任務であった人事・教育の分野では、即戦力化、アウトソーシング、成果主義評価、頻繁な人事異動など、部門責任者である私自身が理解し納得できないほどのスピードで、未消化のまま制度化されたものもありました。結果論かも知れませんが、それらの多くは対症療法だったと思います。急ぐあまりに運用面の問題も多発して、日々の動機づけにも大きな影響が出ていました。振り返って看脚下すれば、正面からキチンと向き合って対処する根治療法が仲間外れにされていたと思います。知らず知らずの内に、自分ファーストの種が芽生えたような気もします。その種には、根源的な課題や原因と向き合うことのDNAが入っていません。掘り下げて考えること、本質を追究することは疎まれて、いつの間にか忌避されてしまいました。私は、そのように総括しております。話を先に進めて、私の考える向き合うことの意味を申しあげておきましょう。

 向き合うという行為は、“根本解決を目指す時の基本的スタンス”と考えております。ですから、向き合うべき問題・課題に対しては、正座するつもりで腰を落ち着かせて正面から取り組むことが大前提の考動指針になります。当面は対症療法で対処したとしても、さらに本質的な根治療法を施さなければ問題が再発する可能性大なのです。結局、根本解決というハードルをクリアしなければなりません。ところが現実に目を向けると、問題の難易度に関係なく、向き合って対処する姿に、残念ながらお目にかからなくなりました。効率化・即効性・利便性が優先され、目先の結果に奔走した結果と言えましょう。そのような実態に危機感を感じているのです。再度強調しましょう。元来、向き合うことは問題解決の絶対的根幹であり、千載不易の基本なのです。急がば回れではありませんが、仕事の進め方の基本でもありますPDCAサイクルを誠実に適格に回すことなのです。複雑化している経営環境を打破するためには、避けて通れない基本的なあり方だとつくづく感じております。さらに話を進めて、向き合うことの対処例を考えてみたいと思います。

 正面から向き合わなければならない問題・課題は、方針を定めて計画化する段階から時間を要しますし、心身のエネルギー消費も半端ではありません。それが実態です。ですから、どのような心構えで対処するのか、ここから見直さなければならないでしょう。キーワードは、「使命感」「業績魂」・「覚悟」だと思います。“私がやらなくて、一体誰がやるのか!”という使命感を腹に落として、“何が何でもやり通す”と覚悟することです。そして、仕事から志事(熱意をもってする仕事)に昇華させることです。この段階なしには、向き合うまでには至らないでしょう。

 もう一つは、視野を拡げる努力と工夫をすることです。難しく考えないで、「他者は自己を映す鏡」、「他者は自己を見つめ直す鏡」という意識を忘れないことではないでしょうか。その方途の一つとして、前回のエッセイで取りあげましたノーサイドミーティング(真面目な雑談会)の日常化をお奨めします。同じ目的(=方向)を共有し、顔を見合って対話することで、方途の幅と奥行きが拡がっていくのです。

 次のような行動のあり方も、見直すに値する対処例だと思います。先ず、気持ちを整えて“相手の立場に立つ”ことです。何度も提起しております『相手:自分=51>49』を意識し、相手の立場に立って聴き、そして対話するのです。患者から学ぶということは、実体験から学ぶということを意味します。PDCAサイクルの四直四現主義を誠実に遂行する行動例と言えましょう。状況に応じて直接出向いて拝聴することは、正に向き合うことになります。感謝の気持ちを、“有難うございます”の言葉とともに、面と向かって直接表すことも大切です。そんな姿も見かけなくなりました。助けて頂いた行為に対して、お礼の気持ちを自筆の手紙にしたためることも少なくなりました。字数制限のあるSNSだけで済ませることには賛同できません。

 これらの対処例の多くは、とうの昔から言われている対人関係の当たり前の基本スキルであり、人としての基本的素養に類するものです。感受性や問題意識の問題になります。もう一つは、リーダーの見識の問題であり、リーダーシップの問題にもつながります。もっともっと対人関係スキルのブラッシュアップを心がけたいと実感している昨今なのです。

  井上 和裕(2020.2.28記)

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