エッセイ93:「考えるとは?」を、行動レベルで考える

投稿日:2015年8月4日

 5月3日は、国民の祝日の一つであります憲法記念日です。
『国民主権、平和主義、基本的人権の尊重』を基本理念とした日本国憲法が、昭和22年(1947年)5月3日に制定されました。私が生まれて約7ヵ月後のことです。「日本国憲法の施行を記念し、国の成長を期する」という趣旨のもと、翌年の5月3日から国民の祝日となったのでした。
 法治国家である日本において、全ての法律の基盤となるのが日本国憲法なのだそうです。“なのだそうです”とは、何とも情けないお話ですが、そのことを最近学びました。改めて学びました。国政では改憲論議が活発化しております。改憲の是非を問うアンケート調査結果が、盛んに報道され始めております。これまた情けないお話しになりますが、今の私には自信を持って回答することができません。「改憲か」、「護憲か」という前に考えなければならない、それはそれは高いハードルがあるのです。その高いハードルとは、私自身がどれだけ日本国憲法を知り理解しているか、という大命題のことです。
 ある方はこう言われました。「改憲、護憲の前に、先ず知憲」と。
 義務教育から始まって、高校そして大学において、日本国憲法を真剣になって学んだ記憶が皆無に等しいのです。大学時代は薬事関連法規の勉強はしました。社会人になってからのある時期は、独占禁止法、景表法、大店法などの流通に関する法律の勉強もしました。その時々の仕事遂行上、必須だったからです。それらの法律に則った仕事が行われなければならないからです。もう少し法というものを掘り下げてみると、それらの法律の根底に流れている理念は日本国憲法であって、薬事法や薬剤師法の本質を理解するためには、先ず憲法を学ぶことが避けては通れない前提要件になってくるのです。そうであるならば、毎年の薬剤師国家試験の問題として、日本国憲法から2問は出題するべきではないかと思えてきます。薬剤師にとっての倫理観の土台として、薬剤師倫理規定とともに、日本国憲法にこそ本質的意味が隠されていると思うのです。以上、私の呟きでした。
 今回のエッセイは、考えるという行為を考えてみましょう。

「考えるとは?」を、行動レベルで考える

 とにかく便利な世の中になりました。
 コンビニエンスストアでは、そのお店の取扱商品であれば1年365日24時間購買することが出来ます。いつでも入手可能ですから、買い置きの必要がありません。何らかの事情でも無い限り、必要になった段階で買いに走れば事足りるでしょう。事前にあれこれ考えなくても、日常生活に支障をきたすことはあり得ない環境下にあるのです。流通企業にとって、生き残り策の一環としての利便性追求は更に激化していくことでしょう。
 そのような中での私の心配事は、便利さが進展すればするほど、全身を使って考える必要性が減っていくことです。別の言い方をすれば、思考停止を招きかねないことです。それ以上に恐ろしいことは、そのことに気づかないばかりか、日常生活における問題意識が低下してしまうことではないかということなのです。
 「喉元過ぎれば熱さを忘れる」と言います。大騒ぎしたことが教訓として生き続けて、備えを疎かにしてはいけないことへの格言なのでしょうが、苦かった出来事がいつの間にか忘れ去られてしまうのも現状です。「人の噂も七十五日」の通り、特に他人事であれば、時の経過とともに多くの出来事は消え去っていくのです。だから、それは人間の生理的現象と認めた上で、“忘るべからず。考え続けるべし”と、言い聞かせたいのです。

 つくづく思います。考えるという行為が少なくなってしまいました。
 考える余裕がなくなっているのでしょうか。考える必要性を感じなくなったのでしょうか。考える必要性が亡くなりつつあるのでしょうか。はたまた、考えることが拒絶される場面が多くなっているのでしょうか。
 想像の羽を広げることは異端児なのでしょうか。感受性も、好奇心も、そして問題意識も、厄介者なのでしょうか。
 少々気落ちしながら、“考える”ということを行動レベルで表現してみました。

       足考:行動することは、足で考えること。
       手考:メモすることは、手で考えること。
       口考:言葉に感情を添えて表わすことは、口で考えること。
       目考:観察することは、目を凝らして考えること
       頭考:感じること、疑問に思うこと、興味を抱くこと。
          そして、掘り下げること、組み立てること、深化させることは、
          頭を使って考えること、脳で考えること。
       耳考:傾聴することは、耳を研ぎ澄まして考えること。
       指考:温もりや肌触りを感じることは、指先を使って考えること。
       顔考:思いや情緒を表情に表すことは、顔全体で考えること。
       心考:相手の気持ちを想像することは、心を使って考えること。
       書考:書き表すことは、言葉に魂を添えて考えること。

 こうやって問題意識を整理整頓してまとめ直してみれば、考えるという行為の巾の広さが見えてきます。これらの「○考」は全て考える行為だと思えてくるのです。この「○考」をシッカリと認識しながら、日々全身で考えるという行為を実行することは、脳活性化の自己動機付けになります。何故なら、ちょっと意識してその気になれば、○考の機会は身の周りに散らばっているからです。ステレオタイプが巾を利かせている昨今、考えることの意義、考える行為の実例を啓発するとともに、問題意識を高める行為の実践を奨励し続けたいと思います。

 最後にひと言。
 本文の冒頭で申しあげた便利さを、否定している訳ではありません。決して、悪者扱いにしているのではありません。エッセイ88回(町の電器屋さんと在宅医療の共通点)で取りあげたように、多くの高齢者にとって便利さは非常に有難いものです。便利さのニーズは十人十色で異なりましょうが、自力での生活が難儀になってくる年代にとって、お節介と思えるほどの便利さに縋り付きたくなる場面が出てくるのです。このことは、69歳を目前に控えた私の実感です。加齢現象を意識することのなかった年令では、全く思いもしなかった実感なのです。想像できなかった実感なのです。
                                                   (2015.5.30記)

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