エッセイ20:意識して試行錯誤し続けるからこそ解ってくること

投稿日:2012年7月2日

 *このエッセイは、平成22年12月に呟いたものです。そのまま掲載させて頂きます。

“音楽の父”と称される大バッハ、ヨハン・セバスティアン・バッハの大作「マタイ受難曲BWV244」は、演奏時間が3時間20分にも及びます。この数年間、聴く頻度の高い曲です。
 この曲のCDを購入したきっかけは、10数年以上は遡ると記憶しております。ケーブルテレビのクラシック番組紹介のために、時々、数十秒間、ある合唱曲が放映されたことがありました。充実感溢れる和声と心穏やかさを醸しだしてくれる曲想は、遠い昔から聴き親しんだ調べのような錯覚を覚えました。その曲が、バッハのマタイであることが判ったのは、しばらくしてからだったと思います。
 曲中には、何度となくコラールが出てきます。歌詞は当然として、調子、和声、速度などは異なりますが、主旋律は似ているように感じます。第3曲、第16曲、第21曲、第23曲、第31曲、第38曲、第44曲、第48曲、第53曲、第55曲は、1分から1分半前後のコラールです。第36曲は6分半、第63曲は3分弱、第72曲は2分強です。
また、第1曲の合唱の厳粛さ、第78曲の終結合唱の穏やかさは、底知れぬ慈愛の深さとして、しばしの安らぎを与えてくれます。宗教的なことはもちろん、対訳の歌詞も、なかなか理解できそうにありません。しかし、この曲を聴くたびに、心が落ち着き、安らいでいくのが分かります。今では、3時間20分という時間が、長時間とは感じなくなりました。
 私の所持しているCDは、1969年の東京文化会館でのカール・リヒターの指揮によるライブレコーディング盤です。(アルヒーフレーベルの3枚組)
 師走の顔の一つは、誰が何と言ってもベートーベンの第九なのでしょう。しかし、この10年間、私の師走の定盤は、マタイ受難曲に落ち着いております。

 2010年(平成22年)の扉が、もう直に閉まる時期になりました。今回のエッセイは、今、心に残っていることをつぶやいてみたいと思います。

意識して試行錯誤し続けたからこそ解ってくること

 対人関係能力やコミュニケーション能力に関しては、このつぶやきエッセイの中で何度となく取りあげました。その重要性だけの提言に止まらず、それぞれの能力の本質的な見方や捉え方、ブラッシュアップのための考え方や方法など、気づいたことを、その都度、申し述べてきました。
 対人関係能力やコミュニケーション能力の重要性・必要性を意識し始めた時のことを思い起こしますと、いかに接したらいいのか、いかに伝えたらいいのか、というような方法論を中心に考えておりました。そのやり方を意識し実行することで、それ以前よりは良好な対人関係やコミュニケーションを築くことが出来るようにはなりました。
 しかし、ある時、ウ~ンと思い知らされたことがあります。それは、自分の都合を中心として接したり話していることが、いかに多いかということです。人生の中では、なりふりかまっていられない時があります。実力が伴っていないのに、目の前の大きな壁に立ち向かわなければならない時だってあります。対他競争の中でもがき苦しまなければならないこともあります。逃げ出してしまったこともあります。だから、決して責めはしませんが……。
 
 信頼をベースにした対人関係や、信頼と安心のコミュニケーションを構築し続けていくためには、結局、相手の立場に立つことを避けては通れません。相手の置かれている立場や状況に思いを巡らせ、相手が悩んでいる事や関心事を探り、?むことから発しなければならないということなのです。そのことが解ってくれば、問いかけること、傾聴することの意味が、ストンと肚に落ちてきます。
 よ~く考えてみれば、“どのようにしたら信頼関係を築くことが出来るのか”、“どうしたら理解し納得してくれるのか”、“どうしたら商談は成立するのか”…… というような素朴な問題意識から試行錯誤を続けていく内に、いつの間にか気づいたことのように思います。
 それにしても、このようなことは、わざわざ言うまでもない当たり前のことです。でも、今の時代、足元に潜んでいる当たり前の黄金律には目もくれず、目先の青い鳥探しに躍起になっているように感じます。当たり前のことを当たり前に行動し続ける。それは、この年齢になったからこそ明言できることなのかもしれません。結局、自分:相手=49<51法則を思い出し、その姿勢で向き合うことではないでしょうか!

(2010.12.10)

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