エッセイ331:初心の本意、ご存知でしょうか?初心と初志を常に背負って、それぞれの任務を果たしましょう

投稿日:2025年6月20日

 前回のエッセイ330回は、私たち国民が、選挙をもっと身近な自分事のテーマとして捉えることを願っての呟きでした。いくつか提案をしましたが、言い忘れたことがあります。それは、選挙で当選された方々への私からの切なる願いです。

 先ずは、今の時代でも良く使われる言葉ですが、初心を忘れないで頂きたいと思います。それも、世阿彌が説いた“初心忘るべからず”の本来の意味の初心です。具体的には、年に数回、それまでの行動姿勢と行動実態を客観的姿勢で看脚下されることを期待します。そうすることで、世阿彌が戒めた自分自身の初心が見えてきます。その初心を謙虚に認めて受け容れたなら、誠意ある言動で問題や課題に取り組むことが可能になると確信しております。もう一つは、政治の道を決断した時の初志を、常に心の真ん中に貼り付けて対処して頂きたいということです。政治の仕事は多岐にわたっている上に、難しい問題・課題が山積しています。四苦八苦は当たり前、焦心苦慮の連続だと想像できます。思うように事が運ばないことの方が、ずっと多いのが実態でしょう。そのような状況下で、高いハードルを飛び越えられるかどうかの最後の砦は、思い立った時の初志の存在ではないでしょうか。その初志に対して有権者は一票を投じたわけですから、初志に恥ずる行動は決して許されません。

 冷静になって考えてみると、この初心と初志は、政治家だけのテーマではありません。私たち一人ひとりの日常テーマでもあります。そこで、今回のエッセイは、私の考える初心と初志の意味について呟いてみたいと思います。

初心の本意、ご存知でしょうか?初心と初志を常に背負って、それぞれの任務を果たしましょう

 室町時代に活躍した能役者・能楽師である世阿彌元清(1363年~1443年)は、著書「風姿花伝(花伝書)」の中で、有名な言葉を残しております。皆さまご存知の“初心忘るべからず(初心不可忘)”です。

 この言葉の意味を問いかけますと、殆んど多くの方々(100人中100人かも知れません)は、「何かを思い立った時の謙虚で純真で前向きな気持ちを忘れるな」という言い方をされます。しかし、世阿彌の言う初心の本意は、そうではないようです。自分の芸が未熟であったことをいつも忘れるなという意味なのです。人気は出たけれども未熟な若い役者に対する戒めなのです。私が“初心忘るべからず”の本意を知ったのは、30数年前でした。それ以来、多くの方が解釈している何かを思い立った時の謙虚で純真で前向きな気持ちを、“初志”と表現しております。そして、初心と初志をセットにした行動指針を説いているのです。

 初心に関しては、世阿彌が40才を過ぎてから約20年間にわたって悟り得た芸の知恵を、段階的に書き継いだ集大成の能芸論書「花鏡」にも記されています。それは、“是非の初心忘るべからず。時々の初心忘るべからず。老後の初心忘るべからず。”という三カ条になっていました。考えを巡らしてみれば、年令に関係なく、経験を積み重ねたベテランであろうと、幾多の困難を経た高齢者であろうとも、その時々の状況に応じた初心が存在することを説いているのではないでしょうか。すなわち、人間の一生は、自分自身の未熟で拙かった姿を素直に認めて、倦まず弛まず鍛錬しなさい、という実践的な忠告なのだと思います。

 こうやって初心の意味を考えていけば、“初心忘るべからず”の本質は、“謙虚な姿勢で生涯学び続けましょう”という自己啓発への誘いと思えてきました。IT(Information Technology)化、AI(Artificial Intelligence)化が急速に進展し、DX(Digital Transformation)主流の時代に突入しました。対応するためには、企業風土・企業文化はもとより、個人一人ひとりの考動(思考&行動)習慣や考え方を見直すことが不可欠でしょう。そんな時、新たな動きに惑わされることなく、大所高所からの複眼的視点で対処したいものです。今回のエッセイは、温故知新的視点で、初心の意味を考えてみました。初心と初志を忘れないことは、時代変革を乗り越える身近で多面的な価値観の一つではないかと思えてきました。

    EDUCOいわて・学び塾主宰/薬剤師 井上 和裕(2025.5.6記)

【参考】エッセイ299回:忘れず抱き続けている私の初心(2024.1.18記)

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