エッセイ314:78才を目前にして、“何のために人は働くのか?”を考えてみました

投稿日:2024年10月21日

 一年半ほど前になります。私の心を落ち着かせてくれる、新たな楽曲に出会いました。一度聴いただけで、海馬から大脳皮質にユッタリと沁み込んでくるような感覚になります。それは、チャイコフスキー(1840年~1893年)の初期の作品で、交響曲第1番ト短調作品13「冬の日の幻想」の第2楽章です。その楽章(アダージョ・カンタービレ・マ・ノン・タント 変ホ短調)は、オーボエによる第1主題、それを受け継いだ弦楽器群で奏でられる第2主題ともに、私の気持ちを穏やかにしてくれるのです。日に何度か聴き返すことがあります。普段演奏されることが稀な曲ですが、喜寿を迎える年になって出会えたことに、ひたすら感謝しております。

 もう一つ紹介させてください。この数か月、無意識に口ずさんでいるのが、オーストラリアの非公式の第2国歌といわれているWaltzing Matildaです。この曲を知ったのは、2017年12月24日(日)にBS151で放送された“世界遺産で弾く日豪友好の調べ”でした。ピアニスト辻井伸行さんは、演奏会の合間をぬってシドニー日本人学校を訪問しました。2016年10月のことです。その場で即興演奏したWaltzing Matildaに合わせて、生徒たちが歌い始めました。誰かが促したわけではありません。辻井さんの気持ちが、演奏を通して生徒の皆さんの心に共鳴して、自然発生的に合唱が始まったように感じられました。辻井さんの演奏は、素晴らしい技量によって支えられた生きることへの賛歌を連想させます。私が無意識に口ずさむWaltzing Matildaは、辻井さんの伴奏で合唱している生徒たちのWaltzing Matildaなのです。それら以外にも、気持ちを鎮めて落ち着かせたい時に聴く曲があります。別の機会に紹介したいと思います。

 さて、何年も前からですが、義務を果たすことなく権利ばかりを主張する様に、ウンザリさせられることが度々あります。そんな時、“何のために人は働くのか?”という問いかけが、どこか軽視されていると感じてしまうのです。また、自分ファーストが当たり前のような風潮に、虚しさを通り越して恐怖感を覚えてしまうことがあります。そんな時に気がかりなのが、“一体誰から給料を頂いているのだろうか?”という本質的な問い対して、どのような回答が発せられるだろうかということです。問いかけることに躊躇してしまいます。今回のエッセイは、“何のために人は働くのか?”に対する理由や意味を、私の実体験から考えてみたいと思います。

78才を目前にして、“何のために人は働くのか?”を考えてみました

 私の学生時代には、親の仕送りで生活しておりました。卒業して社会人になれば、自力で生きていく糧を得なければなりません。糧を得るためには、就職して働くことになります。戦後の高度経済成長がスタートした時期でしたから、より豊かな生活を目指して、どなたも一所懸命働いていました。また、仕事を得ることに困らない時代でもありました。つまり、生きていくための生活の糧を得る”ことが、当たり前の働く理由でした。新社会人になってからの私の7年間は、目の前の仕事を覚えて的確に熟(こな)すこと、任せられるようになることを目標に、諸先輩の背中を追いかける毎日でした。私生活においては、26才で結婚し、2年後に長女が誕生しました。東京でアパート住まいをしながらも、頂いた給料で何とかやり繰りしていたと記憶しております。

 ところが、30才を目前にして、父からの懇願によって、それまでの仕事とは全く異なる業種・職種の仕事に携わることになりました。石鹸・洗剤・トイレタリー製品・サニタリー製品などの卸売販売業の営業職です。テリトリーは、岩手県全域と宮城県北沿岸の一部だったと思います。ご存知のように、30才を而立(じりつ)と言います。“三十にして立つ”ことですから、私にとって自立の年なのです。薬剤師の道を諦めましたから、私の人生にとっての一大分岐点となりました。それからの10年間は、気が休まることがないほどのプレッシャーとストレスの日常だったと記憶しております。給料は4割以上ダウンしました。生計のやり繰りが大変だったと思います。仕事においては、古参の社員から理不尽な仕打ちを受けました。入社の経緯(社長である父からの要請)に対する不満が一因だと思われます。仕打ちというのは、聞えよがしの陰口に始まって、いじめまがいの嫌がらせや差別、今で言うハラスメント(パワハラ、モラハラ)などです。売上目標は、他の社員より前年比が数%以上も高く設定されました。また、ノミ(飲み)ニケーションが盛んな時代でしたから、懇親会や歓迎会などの酒席が、かなりの頻度でありました。からっきし下戸の私は、緊(きつ)めの皮肉言葉を伴った飲酒の強要に悩まされました。どうやって潜り抜けたのか、ある時に記憶から消し去ったほどです。

 そのような環境下で、自分自身を見失わないために固く決心したことがあります。毎月の月次売上目標達成度を、意地でもトップで突っ走ることです。営業の基本を徹底して実践した結果、営業担当となったスタート月からトップの座を譲ることがありませんでした。新製品が発売される春秋には、月の半ば前で目標達成ということもありました。さらに、チームメンバーと協同して競い合いながら、メンバー全員が目標達成するようになって、私に対する周囲の見方が変わってきたのです。結局、理不尽なあれこれの仕打ちは、元来軟弱であった私の心根を強くしてくれたと思います。そのような実態でしたから、30才代後半まで、働くことの理由や意味を考える余地も余裕もありませんでした。目の前の課題や任務を果たすことに精一杯だったのです。

 浮き沈みの激しい10年間でしたが、不惑(40才)を境に転機が訪れることになります。東北各県の同業会社が合併して、仙台市に本社を構えた社員数600名弱のTK販売が誕生しました。その新会社の専任教育担当職(教育部次長)に、私が任命されたのです。1986年10月でしたから、今から38年前になります。教育部は新設部署でしたから、全てゼロからの船出になりました。それまで手付かずであった人材育成のほかに、新卒採用の仕事も担いました。定型業務や育成の仕組みはもとより、手引きなども確立・整備されていませんでしたから、当面の課題であった研修企画からスタートしました。右往左往しながらの繰り返しでしたが、半年後の新卒新入社員を迎えるにあたって、任務を果たすためには避けて通れない高い壁が立ちふさがったのです。正面から突き破るために、二つの課題に挑戦しました。一つ目は、“教うるは学ぶの半ばなり”という行動指針を肚に落として実践することです。もう一つは、私自身の生き方の問題です。つまり、人としての生き方の根幹となる人生観(人間観、仕事観、管理観、会社観など)を明らかにしなければ、専任教育担当職は務まらないと痛切に感じたということです。その中の一つが、今回のE森のテーマである“何のために人は働くのか?”という問いに対する自答を明らかにすることでした。

 そこで、それまでの仕事人生を振り返ってみました。嬉しかったこと、楽しかったこと、感極まったこと、一心不乱に取り組んだことなど、喜ばしいことが幾つかありました。一方で、記憶として鮮明に残っているのが、悔しかったこと、憤りを感じたこと、残念だったこと、居たたまれなったことなど、思い出したくないことが幾つも蘇ってきたのです。それらの中には、人としてやってはいけないと感じたことが数多くありました。しかし、それらの思い出したくない出来事は、反面教師となって私の心構えを正してくれたのです。課題と向き合って試行錯誤を繰り返すうちに、仕事や学ぶことが好きになっていきました“私に課せられた仕事は、私の人間性を磨き上げて高めてくれている”と実感するようになったのです。それ以来、“何のために人は働くか?”の私見の一つとして、“人間性を高めるために、納得するまで働いています”と答えております。また、そこから“教育は共育なり”という理念へと繋がっていきました。私の場合、生き方の一端を自分自身の言葉で明らかにしたのは、なんと不惑を過ぎてからのことです。余りにも遅すぎましたが、それ以降の人生に大きな影響を与えてくれました。

 最後に、78才目前の私からの提案でまとめたいと思います。人間の一生においては、キチンと向き合って意思決定しなければならない時が何度かあるでしょう。その時に問われるのが、人生観・仕事観・人間観などのライフフィロソフィー(人生哲学)です。親のすねかじりを卒業する時に、意を決して自問自答したい命題ではないでしょうか。それ以降の人生に、多様な彩りを添えてくれるでしょう。その上で、年一回、自身のライフフィロソフィー点検をお勧めしたいと思います。

  EDUCOいわて・学び塾主宰/薬剤師  井上  和裕(2024.9.3記)

【参考】エッセイ153回:全力投球のご褒美(2022.8.17記)/エッセイ161回:いつか通らなければならない道に辿り着きました(2022.12.23記)/エッセイ174回:人は一人では生きていけません(2023.6.30記)

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