エッセイ280:失せてしまったのか?道徳的勇気

投稿日:2023年6月5日

 エッセイを通して、自分自身の考えを吟味しながら言葉に表し、私以外の方々と対話し意見交換しながら言葉の意味の中を彷徨っていくと、新たな言葉や考えに出会ったり、思考がさらに深まっていく感覚に浸ることがあります。ただ言葉を発するだけでなく、もっともっと対話する機会を意識して作っていくことで、知らず知らずの内に人間性の深みが育まれていくのだと思います。

 8か月前のエッセイ264回(2022年8月8日記)では、暴言から預言まで75の○言を紹介しました。数週間前になりますが、13の新たな○言に出会ったのです。信言、美言、真言、寡言、佳言、反言、汚言、悪言、怨言、序言、結言、緒言、小言です。また、中国語ですが、嘉言、可言というのもありました。まだまだ出てくると思います。アンテナ指向性に磨きをかけていれば、自ずと得たい情報からアクセスしてくれるような気がしております。前回のエッセイで紹介したリスキリングを知ってから10数日後、今度は「道徳的勇気」という言葉を知りました。それも「の欠如」という言葉が続いているのです。その五文字に強く惹かれたまま、私の問題意識に火がつきました。今回のエッセイは、火がついた問題意識を呟いてみましょう。

失せてしまったのか?道徳的勇気

 “道徳的勇気”を、昨年10月16日(日)NHKBSで放映された「完全版 ビルマ絶望の戦場」で知りました。戦いの舞台となったビルマ(現在のミャンマー)戦線では、戦死者3万人を出して太平洋戦争で最も無謀と言われたインパール作戦のあと、終戦を知らされないまま、1945年9月末まで軍属を含めて10万人の命が失われていたのです。番組の中で、イギリス軍のウィリアム・スリム司令官は、太平洋戦争の日本軍の体質をこう喝破していました。「日本軍の指導者の根本的な欠陥は、“道徳的勇気の欠如”であった。自分たちが間違いを犯したことを認める勇気がないのである」と。また、アメリカ合衆国第35代大統領J・F・ケネディと同じように暗殺された実弟のロバート・ケネディ(1925年~1968年)の至言にも道徳的勇気が出てきます。「道徳的な勇気は、戦闘における勇敢さや偉大な知性よりも希少なもの」と。

 この道徳的勇気について、これまでの私の仕事環境の範囲で解釈してみました。人間の考動(思考&行動)には、“想定通りいかずに失敗する”、“間違った計画によって失敗する”ことが、どうしても付きまといます。また、“無責任な行動の末に間違いを犯してしまう”、“見込みの甘さや無知から失態を演じる”ことだってあるでしょう。道徳的勇気は、そのような実態に陥った時、どのように検証し対処するのかという問題です。

 先ずは、間違いや失敗を潔く認めることです。その上で、“失敗や間違いの原因を追求してPDCAサイクルをスパイラルアップすること”ではないでしょうか。失敗も間違いも、誰にだってあることです。重要な視点は、勇気を出して失敗や間違いを認め、そこから虚心坦懐に学ぶことを怠っては未来への道は拓けないということです。6か月前に出会った道徳的勇気という言葉から、私はそのように学び取りました。“失敗は成功の母”の始点は、道徳的勇気だと思います。

 しかし、現実には、道徳的勇気が失せているように感じることが多いのです。日々の出来事に目を向けてみると、新型コロナウィルス渦、円安問題、物価高騰、食糧やエネルギーの安全保障問題、日本経済の行く末など、いつまで続くか予想もつかない諸問題の閉塞感の中にあります。また、いわゆる不祥事と言われる事案の多さに、怒りを通り越して諦念感に支配されてしまいそうです。叫ばれて久しい企業倫理も職業倫理も色褪せてしまった感があります。さらに、不祥事に対する曖昧な言動や無責任と思しき言い訳から、道徳的勇気の欠如を強く感じています。先ず、間違いを素直に認めてから、“ご迷惑やご心配をおかけして…… ”と言って頂きたいのです。道徳的勇気とその意味を知って、自戒の言葉として新年度と向き合いたいと思います。

   人財開発部/EDUCOいわて・学び塾主宰 井上 和裕(2023.4.12記)

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