*エッセイ271回は、昨年11月15日付のエッセイです。
仕事を遂行する上で不可欠であった習慣行動が、日常生活でも身についてしまいました。卸売業の営業担当者向け教育機会が多かったことから、小売業のストアウォッチングが習慣の一つになったのです。品揃え、品切れ実態、陳列状況、カテゴリーマネジメント、日付管理、特別陳列、クリンリネス、レジ係を含む接客応対など、観察項目は多岐に渡ります。取引先であった小売業の問題点を教材としたケーススタディに対する真剣な取組み姿勢が、いつまでも消えることのない残像として留まっているのでしょう。
あれから20年以上経ちました。習慣行動といっても、気軽な気分転換と脳の活性化という感覚になります。それが問題意識の衰退抑止につながっているような気もします。今でもスーパーマーケットやドラッグストアの買物時には、商品陳列の実態や従業員の接客応対に、自然と目が向いてしまうのです。昨年あたりから、この数年間にオープンした異なる会社の数店舗において、どうしても頭から離れない問題意識が沸き上がってきました。感じている問題意識の一つが、体力も視力も衰えた高齢者には、何とも買物し辛い店舗レイアウトに関することです。先ず、通路がかなり狭いので、来店者とすれ違う時には、身体を横にしなければなりません。コロナ禍のキーワードである“密”が気になってしまいました。それ以外にも、レイアウトに関して申しあげたいことがいくつかありますが、別の機会に譲りたいと思います。さらに追い打ちをかけられたのが、精算時のレジ対応でした。今回のエッセイは、一人ひとりが初心に返って見直して頂きたいマナーに関する呟きです。ここで言う初心は、“自分自身が未熟であったさま”のことを指します。
心を籠めたアリガトウは、永遠不滅のSDGs!
“ハイオアシス”をご存知でしょうか。小売業の代表的な挨拶用語の頭文字を並べて表現したものです。お客様に対する挨拶の基本中の基本であり、私的な日常生活における信頼関係作りにとって大切な潤滑油でもあります。
ハ:はい、いいえ/イ:いらっしゃいませ(いってらっしゃいませ)/オ:お早うございます(お世話様です。お蔭様です)/ア:有難うございます/シ:失礼いたします/ス:すみません *カッコ内は、私の追加案。
微笑みを添えた“ハイオアシス”は、接する相手に対して“心的オアシス”を提供してくれると実感されたことがあったと思います。元来、挨拶とは“心を啓いて相手に向かう”ことですから、“私はあなたのことを認めています”という暗黙のサインではないでしょうか。挨拶をはじめとしたマナーの基本は、“心”(おもてなし)と“型”(正しいやり方)の二側面があって、その両方を自然体で実践していることが、当たり前の行動様式でなければいけません。そうすることが、小売業の使命を果たすために必須の原点だからでしょう。心の底からの感謝の言葉が、“このお店にまた来たい”という感情を掘り起こしてくれると思います。ここから、私の苦言が始まります。
私が感じている心配事は、レジ精算時のお客様に対する“有難うございます(或いは、有難うございました)”の実態であり、その根底にある本質的側面に関する問題意識です。先ず、台本のセリフを棒読みしているような紋切型の言い方が、気になることがあります。それも、下を向いたままか、釣銭やカードを乗せるトレイに視線を落としたままでの対応ですから、私にはアリガトウの想いが感じられません。マニュアル通りの言葉遣いでしょうが、それだけではアリガトウの真意が伝わらないと思います。人の本音は言動に現れますから、表面だけの“有難うございました”で取り繕うことは不可能なのです。紋切型の応対では“お客様にはお見通し”ということを自覚しておかなければいけませんね。余談になりますが、有ることが難しいことを与えて頂いたことに対する感謝から発するのが、“有難うございます”の本意なのだと思います。
一方で、紋切型とは正反対の心からの“有難うございます”にも出会います。ほのぼのとした親しみある感謝の接客を受けることがあります。いま思い浮かぶのが、200坪ほどの食品スーパーマーケット(以下、MUスーパー)です。この店でも、レジ精算時には“有難うございます”と言ってくれます。苦言を呈したお店との大きな違いは、遠慮がちな微笑みを添えて、こちらに視線を向けて“有難うございます”と言ってくれることです。状況に応じて、精算済みの商品が入った買い物かごを、手際よくテキパキとサッカー台(購入商品を袋詰めするための台)まで運んでくれることもあります。その状況を言葉で表すことは難しいのですが、籠められたアリガトウという想いが、自然と伝わってきます。“何がそう感じさせるのか?”を考えてみました。想像の域を出ませんが、おもてなしの原点である“有難うございます”の気持ちの強さ(本気度)ではないでしょうか。いつも利用してくれる地域住民への感謝の思念が、自然と仕事姿勢に現れているのだと思えてきます。私には、心の底からのアリガトウと感じられるのです。そのような感覚が心身に馴染んでくれば、お店に対する親近感が増してきます。“また利用したい”という気持ちになるのです。MUスーパーのレジ応対は、お店の文化として根付いているのかもしれません。デパ地下のある食品売り場では、“いつもご利用いただきまして有難うございます”と、自然な笑顔で応対してくれる顔馴染みの担当者もいらっしゃいます。今回改めて感じたことは、二昔前であれば、どの小売業でも、MUスーパーやデパ地下のような応対が当たり前だったような気がします。その当たり前が、郷愁に駆られる時代になってしまったのでしょう。私のような高齢者にとっての違和感なのでしょうか?
利便性や効率性優先の時代では、マナーの“心” (おもてなし)の部分は影の薄い存在なのかもしれません。元来“心”の部分は、失敗を含めたあれやこれやの実体験を通して、時間をかけながら徐々に身についていくものです。受け止め方は人によって異なりましょうが、お客様を始めとして相手に感じて頂けるレベルに達するまでには、どうしても手間暇がかかってしまいます。“ローマは一日にしてならず”と同じだと思います。さらに、“型”と違ってマニュアル化し難いことと相まって、努力した手応えを実感する機会を得難いのが実態かもしれません。また、相手によって挨拶したりしなかったり、挨拶したとしても心がこもっていなかったりでは、その人の人間性が見透かされてしまうでしょう。そういったケースは、思っている以上に多いような気がします。
いずれにしても、心の籠ったアリガトウは、“情けは人のためならず”の如く、回りまわって自分自身の心を豊かにしてくれます。MUスーパーやデパ地下での“有難うございます”に接しながら、「心を籠めたアリガトウは、永遠不滅のSDGsなり」というフレーズに至りました。そして、心を籠めたハイオアシスは、人間性を培ってくれる、人間性を磨き上げてくれる再生可能エネルギーだと確信しております。新型コロナウイルス禍においては、“表情が読み取れない”というマスクの弊害が話題になりました。一理あるかも知れませんが、“心が籠っていれば、マスク越しでも伝わる”というのが私の見解です。何しろ“目は心の鏡”ですから。そう信じて、心を籠めたハイオシスを始めとした挨拶を、自然体で当たり前に振りまきましょう。この数年間の閉塞したご時勢だからこそ、負けてたまるか精神で、心を籠めた挨拶の日常を日々心がけたいと思います。
人財開発部/EDUCOいわて・学び塾主宰 井上 和裕(2022.11.15記)