エッセイ259:人生は、再挑戦が可能の敗者復活戦

投稿日:2022年8月5日

 この何ヵ月間のエッセイは、今まで呟いてきた“問題提起のリフレイン(英・refrain)”であり、“強い危機意識のルフラン(仏・refrain)”の様相を呈してきました。これまでの経験からの実感や最近の危機感であったり、試行錯誤や追究プロセスから学んだ着眼点であったり、問いかける内容はアチコチ飛び回っているような気もします。しかし、バラバラに飛び回っているのではなく、それらの目指す先には、“共に成長しよう!”という究極目的が太い根っことして張り付いているのです。この十年間、かなり気になっていることがあります。その一つに、表裏一体である義務と権利のバランスの歪みです。時と場合にもよりましょうがが、権利優先の主張や批判にウンザリさせられることがあります。また、忍耐力や健全な想像力が、明らかに脆弱化しているような気もします。そのような感覚が根底にあって、最近のエッセイが“強い危機意識のルフラン(仏・refrain)”になっていると思います。今回も、問題提起の繰り返しになりそうです。

人生は、再挑戦が可能の敗者復活戦

 人生は敗者復活戦なり。昨年の東京オリパラと今年の冬季北京オリパラの各種競技をテレビ観戦して、つくづく感じたことの一つになります。敗者復活戦の裏には“捲土重来という場が与えられており、再挑戦・やり直しが可能である”という意味が組み込まれているような気がするのです。そう解釈することが、大きな意味を持つのではないでしょうか。どの競技でも、メダリストはほんの一握りです。“優勝以外は皆同じ”という考え方からすれば、金メダル以外は敗者ということになるでしょう。しかし、稀有な例を除いて、多くのメダリストも過去の挫折を克服して、いくつもの敗者復活戦を勝ち上がってきたのです。インタビューやその後のドキュメンタリーから、その実態を始めとして多くのことを学ぶことができます。そして、メダル獲得に至るまでのプロセスから勇気づけられたことがいくつもありました。それらの一部を取りあげてみたいと思います。

 先ず、“千里の道も一歩から(千里の行も足下より始まる)”ということです。東京オリパラの場合の一歩を、リオ大会の5年前にしましょう。5年間の人知れず繰り返した地道な鍛錬が、千里の道の踏破へと導いてくれたのです。人材育成や業績も同じではないでしょうか。“倦まず弛まずコツコツ積み重ねるという泥臭い努力”こそが、目標達成・目的成就の王道なのだと思います。併せて、“闘う相手は自分自身”であり、“成長とは、他人との比較ではなく、前日までの自分と対比するものだ”ということに気づきました。それらが腑に落ちてくれば、“失ったものを数えるのではなく、今あるものを活かすことに注力する”ようになれる気がします。

 そこからさらに考えてみました。今の世の中、相変わらず便利さや効率性がもてはやされています。そのことを否定はしませんが、そのせいか、大切なことであっても、手間暇のかかることや地味で面白味が欠けることを避ける傾向が強くなっているように感じるのです。知らず知らずのうちに“木を見て森を見ず”状態に陥ってしまうような気がしてなりません。恐ろしいのは、目先の利益が優先されて理念や本質を見落としてしまうことです。そのような問題意識から、“敗者復活戦を戦い抜いた方々が、忍耐力と克己復礼で乗り越えた姿”に、共感させられるのです。

 想像の世界を泳ぎ続けて行き着いた私見にも触れておきましょう。オリンピアンもパラリンピアンも、“自分の良さを消すのも自分、自分の良さを引き出すのも自分”という自因自果の実践者なのです。根幹にある“主人公は自分自身” という自覚、“人は一人では生きていけない。多くの方々に支えられて今がある”という感謝と相互信頼の念を抱いて、日々自己研鑽していると感じ取れます。さらに忘れてならないのが、問題提起したアレコレの前提となっている復活の導火線の存在です。今回は、「敗者であることを素直に認める潔さ」、しかし「このままでは終われないという挑戦者魂」、だから「絶対にやり遂げるという覚悟」の三位一体になりました。人生は敗者復活戦という考え方は、仕事も含めた私たちの日常にも当てはまります。“失敗しても再挑戦できるのが人生”というポジティブ思考は、失敗しても大らかな気持ちで次に備えられると思います。これまで挫折を克服できないこともありましたが、いくつかの敗者復活戦挑戦のMyリフレイン人生から実感した次第です。                  

   人財開発部/EDUCOいわて・学び塾・種蒔き塾 主宰 井上  和裕(2022.6.2記)

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