エッセイ242:しんゆう(心友)考

投稿日:2021年11月20日

 その人の心根が顕れてくることの一つに挨拶があると思っています。私の見解ですから、“あります”と断定はできませんが ……。“挨拶は、どこでも、どのような時でも、誰に対しても、平等に同じ様に行う“というのが私の考え方です。そのような行為を、どれだけの方が実践されているのか、疑問を感じることがあります。調べたことがありませんから、あれこれ申しあげようもありませんが、実践率は低いと想像しております。

 新型コロナウイルス禍によって、仕事のあり方・進め方と同じように、社内外での挨拶のあり方にも、新たな風が吹いているのかもしれません。そんな予感のニュースを耳にします。そのような事態と向き合わなければならない時は、挨拶の目的・意義などの原点を学び直して欲しいと感じています。挨拶を含めたビジネスマナーは、形(やり方)に眼がいってしまい勝ちです。おもてなしなど、心的側面にも目を向けて、総合的視点で再構築して欲しいと願っております。心的側面をしっかり押さえておけば、形は自ずと決まってくるでしょう。今回のエッセイは、心という文字の入った“しんゆう(心友)”について考えてみましょう。

しんゆう(心友)考

 半年前のことです。あるアンケート調査に、次のような質問項目を見つけました。「あなたには親友と呼べる人がいますか?」と。しばらくの間、考え込んでしまいました。考え込んでしまった理由がいくつかあって、その一番は“親友の定義は何か?”、“親友と呼べる人はどのような人を指すのか?”という問いへの回答が、直ぐに出てこなかったからです。あれこれ調べてみました。それらのいくつかの考え方を鑑みれば、身近な家族以外は、簡単には思い浮かんでこなかったのです。しかし、家族を親友とはいわないでしょうから、“私の親友が誰か?”は、ストップしてしまいました。

 同じ読み方で心友という言い方があります。作詞・作曲家石坂まさを氏の著書に、「心歌十二章」(1994年12月1日初版第一刷/世界文化社)というのがあって、その第一章のタイトルが心友です。27年ほど前に知りました。そう言えば、50数年来の友人が、心友という表現を使っていることを思い出しました。古希を過ぎて後期高齢者目前の私にとって、心友という言葉が、私の心のひだに優しく張り付いてくれるような感覚がしたのです。心友に関しても、親友同様にあれこれ調べてみれば意味を知ることができるでしょう。しかし、今回は止めました。心友という二文字が醸し出す雰囲気を大切にしたくなったのです。想像力の世界を泳ぐことにしました。もう一つ強く感じたのは、人生のゴールが見えてきた時に心友という存在が明らかになるような気がするのです。それまでの人生経験を通して、いくつもの事象を包み込むことが出来る心的余裕が備わってこそ心友と呼べる存在が意識できるのではないでしょうか。

 私にとって心友と呼べる方と対話を進めていくと、否定的側面が影を潜めるのです。お互いを受け容れるところからスタートするので会話が弾みます。ゆったりした流れの中で対話が進みます。発する文言の意味を確かめながら、有意義なコミュニケーションが形成されていくのです。当然、間違いや誤解があれば指摘し合いますし、勘違いがあれば確認し合います。気がつけば、かなりの時間が静かに流れています。新型コロナウイルス禍ですから対面は不可能ですが、電話であっても、直接向きあって話しているように感じるのです。

 さて、前回のエッセイ241回は、3分間スピーチ原稿作成が目標でした。今回は、5分間スピーチを意識してのエッセイに仕上げております。

    人財開発部 井上 和裕(2021.9.18記)

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