最近、噛みしめるほどに痛感させられたことがあります。それは、これまでのエッセイの目的に隠れた私自身の思いに関することです。5ヵ月後に後期高齢者となることから、“年を重ねるということ”の意味を考えるようになりました。その過程で、感じたことの一つです。その中身は、これまでほとんど意識しておりませんでした。ここ数年、何かと弱気になっていることが、影響しているかもしれません。或いは、“もう少し頑張ってみたい”、“もう少し同志と学び合いたい”という心の底に留まっている思いが、影響していたような気もします。
あれこれ考えている中で、約2年前になりますが、腎盂腎炎に罹患した時のメモ書きノートが出てきました。驚いたのは、今回痛感したことと重なる内容が多かったことです。古希を過ぎてから、エッセイのあり様について、複眼的な視点で自己批評していた頃の気持ちが、今回蘇ってきたように感じました。思いつくまま筆を進めてみましょう。
遠慮しないで、もっと自分を褒めましょう。励まし合いましょう。
つぶやきエッセイをスタートしたのが、2005年4月でした。その数410回を積み重ねた11年目の春、EDUCOの森に衣替えするに至りました。2016年4月のことです。エッセイにしてもEDUCOの森にしても、その時々、私の心に引っかかった問題を提起して、意見交換する場を目指しました。その裏には、常に企業内人事教育担当者育成という意識が横たわっているのです。詳細については、エッセイ118回を再読願います。さらに、こうやって絶やすことなく継続しているのは、私を育ててくれた社会に対しての私なりの恩送りということも意識するようになったからでした。それらの目的は今でも変わっていませんが、何年か前から“そういうあなた(井上和裕)の実態は、どうなのさ?!”と、もう一人の私(井上和裕)が、私に問いかけてきたのです。2年前の殴り書きつぶやきノートには、ハッキリと大きな字でかなり強烈な問いかけが、いくつか書き記してありました。
今回痛感させられたことの一つは、問題提起にしても提案にしても、その内容が“独りよがりになってはいないか?”、“驕りはないか?”ということなのです。私自身のそれまでを謙虚に振り返れば、もう一人の私からの問いかけにNOと言えない側面が存在します。そのことをキチンと総括した上で、“こうありたい”、“こんなことに挑戦してみませんか”ということをつぶやく原点回帰を痛感させられたのです。反省は必要なピースではありますが、反省ばかりでは心が痛んできます。萎えてきます。そうならない為には、反省したその先に明かりを灯したいのです。今必要なのは、正に希望につながる明かりなのだと実感しています。そんなエッセイを目指したいと、改めて思うのです。
もう一つ感じたことがあります。最近のエッセイは、衰えの目立つ心技体を鼓舞して、後退りしそうな気持を後押ししようとしている気がするのです。“気がする”という言い方は他人事の感がありますが、過去を振り返って落ち込むのではなく、壁を乗り越えるべく頑張ってきた自分自身への応援歌を、もがきながらもつぶやこうとしているのだと思うに至りました。最近では、“それで良いのだ!”と感じ始めています。新型コロナウイルス禍によるいくつもの制約は、マイナス思考がはびこり勝ちです。ストレス源になります。一方、そんな中でも工夫を凝らして前を向いて歩いている方々が、全国に数多くいらっしゃいます。些細な努力であっても、遠慮することなく、自分自身の努力や我慢を“良し”と認めて、そんな自分を褒めましょう。もっと自分を認めて励まし合いましょう。私と同世代、私より若い世代の数人の方々から、そんな生き方を教わりました。この閉塞した禍中を、そんな思いで乗り越えましょう。
井上 和裕(2021.5.10記)