エッセイ234:私の小さな恩送り

投稿日:2021年7月20日

 新型コロナウイルス禍の1年数ヵ月で、多種多様な発言と行動に出会いました。何やら両極端と思える言動との出会いが、多種多様という言い方になるのです。そのいくつかは、二度にわたって発した号外編で呟きました。そんな中で浮かび上った吐露のような感覚の私の思いがあります。先ず、そのことから触れてみましょう。

 程度や感じ方は、その時々の状況によって異なりましょうが、“誰かにやられて嫌だった経験、耐えられなかった経験”を、いくつかお持ちではありませんか。或いは、見聞きしたことはありませんか。私事ですが、そのような事態を何度か経験しました。記憶から消えないこともあります。心が折れてしまいそうなこともありましたが、ある時“人にやられて嫌だったことはやってはいけない。やらない”と決めたことを思い出しております。また、このようなこともありました。どなたかの言動に助けられたことです。直接的行為もあれば、私自身が未だに気づいていない、陰ながらの支援も間違いなくあったはずです。50歳を過ぎたあたりから、時々、ふと思うことがありました。“私は、それらを、どれだけ心に留めているだろうか?いただろうか?”、“助けられた言動に対して、キチンと感謝の姿勢を表しただろうか?”、“助けられたことを気づかずにいるのではないだろうか?”という自らへの問いかけです。そのような自問を改めて意識するきっかけとなったのが、この数年間、社会に出てからお世話になった先輩や同輩の訃報が続いたことです。仕事経験が浅かった時代に、様々な形で助けて頂いた方々です。長いことお会いしないままの状態でしたから、私の思いを伝えていなかったことを悔やんでしまいました。恩返しは叶いませんでしたが、私自身の残りの人生を恩送りという形で努めたいと思うに至ります。75歳目前の未熟な私を育ててくれた世間様への恩送りという恩返しです。新型コロナウイルス禍の中で、何とも情けない発言や言行不一致の方々の存在が、その思いをさらに強くしてくれました。

 今回のエッセイは、私に出来る恩送りの一端を呟きたいと思います。前回の姉妹編になりそうです。

私の小さな恩送り

 私に出来ると考えた恩送り(どなたかから授かった恩に感謝して世間様にお返しする行為)は、30歳代後半から携わって現在でも続けている人材育成に関することでした。そのような思いが強くなってからは、これを恩送りの志事として生涯現役を貫こうと決めたのです。ただし、私の持ち合わせている心技体や状況対応力が、私の考える達成基準を満たしている、という条件付きにしました。大切なことは、志事全体の品質に尽きますから…。

 具体的には、問題提起と応答の対話で自己啓発・相互啓発する機会を設けることです。私が関わっている中田薬局でのいのうえ塾、同志との学び塾、EDUCOの森などのエッセイ発信、友人・知人との情報交換会などが、主な啓発機会となります。“応答は問いに依存する”とも言われます。この場合は、問題提起が問いであり、その問いかけする内容が、掘り下げる応答の対話実現の重要な要素となるのです。その問題提起の中でも、30年も前から問いかけ続けていることがあります。それが、今回の私の恩送りの一例として紹介したい中身になります。

 問いかけは、前回のエッセイで触れました「学ぶこと(勉強すること)の目的は何か、意義は何か?」、「学ぶこと(勉強すること)は楽しいか?好きか?」の二つです。生涯学び続けることは、この世に生を享けた私に与えられた課題だと考えるようになって、かなりの年月が経ちました。そう決めたのであれば、イヤイヤ学ぶのではなく、最近の言い方で表わせば、楽しく学びたいのです。そんな理由から、「学ぶこと(勉強すること)の目的は何か、意義は何か?」、「学ぶこと(勉強すること)は楽しいか?好きか?」を問いとして対話することが私の恩送りテーマになりました。

 前回述べた私見をおさらいしましょう。先ず、「勉強の目的は何か?」に正しい回答は無いと感じています。極論すれば、人の数だけ答えがあるということに尽きるのです。自答するにあたって、このことを理解し腹に落としておいた方が良いと思います。一方、振り返ってみれば、「勉強の目的は何か?」の回答は、私にとって難問でした。しかし、答えに至ることが難しくて苦しいけれど、自分が学びの主人公と位置づけて向き合えば、時間を要しても何とか辿り着くことが出来ました。さらに、目的が明らかになれば「勉強が好きか、嫌いか?」という自問へと連鎖します。その結果、“私は学びたいから学ぶのだ”という固い意志があれば、いつしか勉強は楽しいと思えてきました。それが私の経験則であり、現時点での考えなのです。

 以下、二つの問いに対するいくつかの応答例を紹介しましょう。30数年間のメモからの転記ですから、その出所は不明です。これらの見解の意図を想像しながら、一人ひとりの回答を模索し続けてください。一つ目の回答は、“長い人生を考えると、困難なことから逃げずに向き合わないと、後で苦労することになります。ですから、無知の知を悟って、日々勉強するしかありません”という見解です。教育担当成り立ての頃、そう信じて励んだことを思い出します。二つ目は、目標によるマネジメント研修で納得したことです。“目指す方向(目標、ビジョンなど)が明確になっていれば、学ぶことが楽しくなります。勉強が好きになります”、“何事も、好きだから身につくと思います。身になるのではないでしょうか”というシンプルな見解です。

 もう一つ紹介しましょう。“勉強(学び)は、成長・熟達へのプロセスです。熟達すれば、臨機応変な状況対応が可能になります。そうなってくれば、学ぶことが楽しくなりますね。そのレベルになれば、勉強そのものが心友(しんゆう/心の友)と位置づけられる間柄になるでしょう”。この回答は、長い人生経験から得た貴重な見解だと感じてしまいます。

 様々な考え方、見解があります。是非、自分自身の言葉で表現できるようにしませんか。楽しんでチャレンジしてみませんか。今回は、私の小さな恩送りの一つを紹介しました。これからも、自主的学びを奨励する機会を持ちたいと思います。

    井上 和裕(2021.4.23記)

【恩送りとは】最近、“恩送り”という言葉を知りました。恩返しはその人に直接返すことですが、“受けた恩を直接その人に返すのではなく、別の人に送ること”が恩送りなのです。あれこれ掘り下げて考えてみれば、“恩はつなぐもの”なのだと思えてきます。恩送りも恩をつなぐことも、ある程度の年令に達したなら気づかなければいけない、人としてのあり方の根源ではないでしょうか。現在の私の姿は、多くの方々の有形無形の心遣いや支えがあっての姿なのです。私一人の力でここまで成長してきたわけではありません。お互い様、お世話様の世界で、この年まで生きてきたのです。生かされてきたのです。ですから、恩送りは人としての自然なあり方であって欲しい、一生の作法として意識していかなければいけないと感じております。(エッセイ205回より)

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