※エッセイ216は、2020年5月30日(土)に脱稿したエッセイです。
明後日から6月に入ります。この2ヵ月間は、新型コロナウイルスをテーマにした号外編をお届けしました。今後は、本来のE森を復活させながら、withコロナについても取りあげて考えていきたいと思います。復活エッセイの第一弾になります。
“看脚下”と同じように、行動のあり方として方向づけする頻度の高い言葉があります。それは“向き合う”という言葉です。目の前の課題であったり、相対する相手であったり、向き合う対象はいくつもあります。その理由も含めて、数か月前のエッセイ211回で取りあげました。エッセイ215回では、看脚下について呟きましたが、看脚下と向き合うことは絆のような間柄に思えてきます。何かと向き合う場合、看脚下することは避けて通れないプロセスなのです。足もとを見直す時には、表から裏から斜めからというように、全方位から観ることが大切になります。様々な視点(着眼点)を動員して、客観的な判断をしなければ解決につながらないからです。今回のエッセイは、足もとを見直す方途の一例を紹介したいと思います。昨年、なかた塾M&L教室実践コースⅠ(以下、M&L実践Ⅰ)の定番カリキュラム(所要時間:約80分)にしました。恐縮ではありますが、その進め方を披露したいと思います。
M&L教室実践コースⅠ「人のふりが気になったら、我が身をふり直してみよう」
ジャーナリストの轡田隆史氏は、「新入社員に贈る言葉」(日本経団連出版編:平成19年11月20日発刊)において、「一日のすごし方とは、平凡な当たり前をきちんと確実にこなしてゆくこと」というタイトルで、平凡な当たり前を10項目掲げています。その最初の項目に、朝起きて鏡に顔をうつすことの意味が、こう表現されていました。“今日という日を、どう生きようとしているのか、自分に問いかけるために、鏡の中の己と対面するのだ”と。出会って以来、今でも変わることなく共感している内容です。その真意を共に考えながら、“毎朝10秒間、気持ちを集中して、今日どのように生きるのかを、鏡の奥の自分自身に問いかけよう”と提案しております。M&L実践Ⅰでは、上記の問いかけをしながら“鏡の意義に関して、もう一つ考えて頂きたいことがあるのです”と続けます。Q&A方式(応答の対話)で、私たち年代では知られている箴言(人生における教訓、戒めの言葉)を引き出したいのです。もうお分かりだと思いますが、『他者は自己を映す鏡』、或いは『他人は自分を映す鏡』という鏡の存在です。『他者は自己を見つめる鏡』という言い方を耳にしたこともあります。ここからは、最近の新聞投稿記事、阪神淡路大震災やナホトカ号重油流出事故(1997年島根県隠岐島沖の日本海において発生)のボランティアセンターに貼ってあった詩「どろあしのままで」、ここ数年間の各界の不祥事などを教材として、他者は自己を見つめる鏡、見つめ直す鏡になることを気づいてもらうのです。私からは、『他者は自己を見つめる鏡』をぶれない考動理論として、身近なあちこちに存在する反面教師を理解できるようになれば、砂に水が浸み込むような勢いで健全な判断力が身についていくことを言い添えています。また、ある外国人の見方を紹介しながら、身近な鏡の存在を気づいてもらうきっかけにもしております。それは、“日本人には、何も行動しないまま議論し続ける能力がある……”という皮肉な見解です。現状の私たちの課題を、ズバリ指摘されたような気にもなります。
こうやって、いくつかの鏡を紹介しながら、私たちのこれからのあり方を掘り下げて考えるカリキュラムなのです。最終結論は一人ひとりが決めることではありますが、私の考えも参考程度に伝えております。そのいくつかを紹介しましょう。
先ず、“私たちは、積極的なチェンジメーカー、アクティブマイノリティを目指し、そのことを意識して行動しなければいけませんね。行動し続けることは、稀有な立派な能力なのです。私は、継続して実行することが人間性や能力を高める数少ない秘訣の一つだと思い続けております”と。そして、“生きててよかったというような納得した人生は、あるテーマを地道にコツコツ究め続けた人への、その方の多くの支援者からの何物にも代え難いご褒美だと強く強く思うようになりました”と続けております。あるテーマというのは、主に目の前の問題・課題であり、本人が決めたライフワーク的テーマを指しています。
このような提言も用意しております。私が目指している目標は、“自己啓発できる人材”の育成です。誰もが持ち合わせている学習能力に点火して引き出し、さらにスパイラルアップさせ続けることです。その学習能力を引き出すための着眼点の一つが『人のふり見て、我がふり直せ』です。『他人は自分を映す鏡』の別バージョンですね。この10数年間、私の自戒の言葉になっています。もう一つの着眼点は、日々の平凡な暮らしの中にこそ、宝物の種が落ちていることに気づくことです。日常の生活の中にある、小さな素晴しさを大事にしたいですね。
初回のM&L実践Ⅰでは、次のようなまとめで締めくくりました。その一部を紹介しましょう。
結局、“人生における一番大切な勝利は何か?”ということへの自問自答に行き着くのです。さらに突き詰めれば、自分自身の生き方の問題になると思います。私の見解を、この機会に披露しておきたいと思います。言い方は異なるかもしれませんが、最近のエッセイで、幾度となく取りあげている内容です。仕事も含めた日常の生活の中にある、ささやかな出来事、出会い、触れ合いから産まれてくる素晴しさを大事にすることです。そのためには、意識して感受性を働かせることです。感受性を磨き働かせることの意義は、そのような生き方を貫いていけば理解できるようになります。新入社員研修では、師匠を持つことを奨励しました。私の言う師匠とは、心の底から師匠と公言できる人のことですが、日常の生活における様々な素晴しい出来事も師匠なのです。経験を積み重ねていけば、そんな考え方も実感できるようになると思います。皆さん、一生かけて人間性を磨き続けましょう。その行為は人間の義務です。磨き上げる方途はいろいろあると思いますが、その一つは“人のふりを見たなら、我が身をふり直してみましょう”ということ、もう一つが“日常の生活の中にある、ささやかな素晴しさを大事にしよう”ということです。
さて、昨今の○○ファーストという表現を、皆さんはどう感じていらっしゃいますか?私の見解は、No Goodです。○○ファーストという表現の真意を否定はしませんが、うわべだけの使われ方に問題意識が働くのです。一番があれば、必ず二番があります。三番も十五番もありましょう。○○ファーストが強調されれば、自ずと序列ができます。知らず知らずの内に、既得権の芽が出てきます。不公平や不平等、そして格差も生まれます。さらに怖いのは、思考停止の種が蒔かれることです。人は一人では生きていけません。多くの方々の支えがあって今があるのです。軽々に○○ファーストの旗を掲げることなど、私にはできません。そのことを気づかせてくれたのが、正に『人のふり見て、我がふり直せ』でした。『他者は自己を見つめる鏡』だったのです。
(2020.5.30記)
【参考】 看脚下は、照顧脚下という言い方もあるそうです。