「抑(そも)」という接続詞があります。次の事柄を説き起こす(説明を始める)ときに使う語ですが、強く言いたい時には、「抑々(そもそも)」と重ねて使われます。
国語辞典には、“一体全体(本来、元来)”とか、“それにしても(前の事柄を一応認めながら、それに反する意を導くのに用いる語)”と出ていました。
公私に関わらず、何かのテーマについてディスカッションすることがあります。日常生活における身近な意見交換、研修や授業などの教育機会における対話や質疑応答なども同様です。そのテーマが何であれ、結論に達する過程の中では、参加メンバーの意見があちこちに飛び火したり、収拾つかなくなることが間々あります。放っておくと、テーマの意図とかけ離れた方向へ展開することもあり得ましょう。そのような場合、議論の方向性を本筋に戻さなければ、堂々巡りのまま消化不良状態で終わってしまいます。そんな時に好都合な言葉の一つが、「抑々」ではないでしょうか。
この「抑々」を、エッセイでもE森においても、用いた記憶はありません。しかし、内容を再確認すると、抑々論がかなりの頻度で呟かれていることに気づかされます。さらに、私の呟くその抑々論を吟味すれば、キーワードが本質であることが分かりました。特に最近のエッセイでもE森においても、本質について言及する機会が半端なく増えているのです。
エッセイ147回は、その理由も含めまして、本質追究について考えてみたいと思います。
鳥瞰することで見えてくる本質
私が主宰します最近の学び塾では、何故本質追究なのか、その理由をお話することがあります。
理由の一つは、問題を解決するにしても、課題に挑戦するにしても、本質が見捨てられているという現実への危機感からです。絶対に外せない着眼点である本質が、目先の対症療法に圧倒されていることにあります。もう一つの理由は、本質追究というプロセスが、右肩上がり経済が終焉してから始まった表面的な効率化とスピード化の波の中に、ほとんど埋もれたままにあることです。そう意識し始めて10数年も経つでしょうか。
ここ数年の間に、私が感じている、或いは言葉として発した「抑々……」のいくつかの具体例を挙げてみましょう。
先ず、薬学生に対して問いかけ続けている二つの本質論を紹介しましょう。
一つ目は、Q1「あなたは何のために勉強しているのですか?あなたにとって勉強の目的は何でしょうか?」です。9割の学生からは、なかなか言葉が返ってきません。回答があったとしても、明らかにその場しのぎの思い付きがほとんどだと感じています。併せて、Q2「勉強は好きですか、嫌いですか?」と訊くことがあります。周りの目を気にしているからでしょうか、「嫌い」が、ほぼ100%ですね。
二つ目は、就職活動(以下、就活)に関する投げかけに近い問いかけです。Q3「あなたは何のために就活を行っているのですか?あなたの考える就活の目的を、あなた自身の言葉で私に教えてください」、さらにQ4「就活のあり方を、あなたはどの様に考えていますか?」、Q5「あなたが考えている就活の進め方とスケジュールを、具体的に教えてください」と続けます。薬学生対象の企業研究セミナーでは、時間が許す限り、これらの質問からスタートすることにしています。16年も続けていますが、採用担当である私からのこれらの(予期せぬ)質問に対して、多くの学生が面食らってしまうのかもしれません。ここ数年は、いや薬学部六年制になってからは、私の本質的問いかけに対する反応が明らかに鈍くなってきました。そうなった理由は定かではありませんが、本質を追究する学問でもある薬学を学ぶ意義を、どれだけ意識し理解されているのか不安になってしまいます。
若手薬剤師に対する問いかけの一例も紹介したいと思います。
Q6「コミュニケーションとは何ですか?コミュニケーションの定義を教えてください」、Q7「コミュニケーションの良し悪しの評価基準は何でしょうか?あなたの考えを、あなた自身の言葉で表現してください」など、調剤薬局や病院薬剤師にとって重要なコミュニケーションに関する質問の数は、Q6Q7以外にも両手を優に超えます。Q8「メモの効用は何か、あなたの考えを教えてください」というように、基礎的な職務遂行能力に関する内容も用意しています。さらに、仕事観(Q9「あなたが考えている仕事の目的や意義は何でしょうか?」など)、人間観、人生観など、生き方に関する質問を発したくなる時だってあるのです。
紹介したこれらの質問は、私の中では本質的抑々論と位置付けております。申しあげたいことは、これらのQに対してキチンと向き合って意思決定した回答があって、具体的な活動へと展開できるということなのです。本質的側面をキチンと押さえることで、目的を見失うことなく、継続した活動が実現できます。現状実態を鑑みれば、誰かが発し続けなければならない問いかけなのです。経験則に基づく私の考え方ではありますが、これからも問題提起し続けたいと考えております。
さて、本質論を問いかける時には、追求ではなく、敢えて追究という言葉を使うことがあります。私が企画運営した薬学生との勉強会における講義録の一部を紹介させて頂きます。
一番目の狙いに、追究という言葉が出てきました。“ついきゅう”と言えば、追求、追及もありますが、この追究という言葉の意味を考えてみましょう。
追究するということは、本質を明らかにするという意味です。そして、ことさらに強調したいことが、薬学を学ぶことの意義の追究です。簡単な言い方をすれば、日々の勉強こそが、受身で教わるだけではなく、追究する(本質を明らかにする)ことなのです。このことをしっかりと確認しておきましょう。さらに、大学生活で学び、追究したことを将来につなげなければ意味がありません。これらのことを意識して欲しいと思います。
付け加えますと、“意識する”ということは、行動につなげるということです。実践するということなのです。実践を意識して考える、そんな3時間にしたいと思います。
こうやって、少し立ち止まり、気持ちを落ち着かせて、今までの考え方を紐解いて点検してみれば、このエッセイも学び塾も、正に本質追究の場であり旅であることが判ります。改めて読み取れば、10年前より5年前、5年前より3年前の方が、より耕されていることもハッキリと見えてきます。同じテーマでも、前回よりもさらに掘り下げて考えたことで、明らかに表現が洗練されていくのだと思えるのです。
今回のまとめとして、本質を追究する時の着眼点で締めくくりたいと思います。
物事の本質を意識するようになってから、私の言動にも変化の兆しが芽生えてきました。その一つが、「木を見て森を見ず」を自戒の思考習慣としたことです。物事の細部に気をとられて、全体像を見失って本末転倒に陥ってしまうことの例えでしょうか。若かった時代は間違いなく「木を見て森を見ず」状態でしたが、それは年齢に関係なく付きまとう落とし穴だと思います。問題意識が浅薄な状態の時に、心の隙間に付け込んでくる曲者なのです。数多くの失敗体験から、私は以下のように対処しております。
課題に取り組む時には、先入観を排除して、広い視野で全体を見渡してからスタートすることを心がけております。鳥瞰、俯瞰ですね。そう意識することで、対処する事象・事柄の本質を見誤ることが少なくなりました。見失うこともなくなりました。この十数年間は、枝葉に拘ってあれもこれもの対案テンコ盛りになることが、ガクンと減りしました。結局は“着眼大局、着手小局”だと…。そう実感させられています。
現実に目を向けますと、私が若かった時代と同じような景色が、あちこちで描かれています。試行錯誤を繰り返しながら、“着眼大局、着手小局”にも気づいて欲しいと祈っています。
(2017.8.20記)