曲がりなりにも私のオリジナルといえる教材を作成できたのは、いつ頃だったでしょうか。昭和62年から平成にかけてだったと思います。そのきっかけを思い起こせば、仕事遂行上必要に迫られて作成したモノ(教材、マニュアル、配布資料)ばかりです。「必要は発明の母なり」気分どころではなく、ただ直向きにガムシャラに必死で取り組みました。
作成にあたって、忘れずに意識したことがあります。6W3Hを盛り込むことです。特に、WHYですね。“何故か?(理由、背景)”が納得できれば、誰彼に言われなくてもセルフコントロールで努力するのが、“考える葦”と言われる所以だと信じているからです。平成3年頃からは、教育ニーズを先取りして、必要と思える教材や資料を積極的に作り始めました。その一つが『メモ習慣化の効用~なぜ“メモをとれ”なのか?』で、現在も活用しております。メモの重要性に関する補足教材作成の理由は、自発的にメモをとる社員数やメモの量が、年々下がってきつつあると感じたことでした。さらに、私自身の“メモにどれだけ助けられたか!”という実体験が、間違いなく後押ししてくれました。
エッセイ145回は、改めてメモの効用を考えてみたいと思います。
なぜメモが大事か!
先ず、私が作成した『メモ習慣化の効用~なぜ“メモをとれ”なのか?』の一部を、披露させて頂きましょう。
*メモは、メモランダム(memorandum)の略。「ジーニアス英和辞典・改訂版」によれば、〔…に関する〕
覚え書き、〔将来のための〕備忘録、簡単な記録、メモ、〔略式の〕社内伝言、〔同僚間の〕回報…の意味。
(1)忘れ物防止(備忘録)
人間のワーキングメモリー容量は、非常に小さい。今、インプットされた情報が、
次から次へとアウトプットされてしまい、大切なことも忘れてしまう。
(2)潜在意識への刷り込み効果
書くことで、「心に焼き付ける」「心に刷り込む」という効用が生まれる。
だから、模造紙やカードに書いたり、自己紹介を絵にして発表してもらうのだ。
(3) メモ帳・ノートは「知識の宝庫」となる
メモは、誰かの話を傾聴しながら、“自分の言葉で、簡潔に、キーポイントやキーワイドを、考えながら書く”、“限られた時間の中で、できる限り多くの重要情報を書きとる”作業。だから、
(4) コンセプチュアルスキルが養える
(5) 全体を観る力が身につく ~“木を見て森を見ず”にならないように!
(6) とっさの判断力・決断力が養える
(7) メモのスピードが速くなる
(8) 集中力が身につく
(9) 持続力・継続力が身につく
(10) 想像力が養える~書き記すことは、無意識の想像行為であり、創造行為
『断片的なメモ』を組み合わせることによって、
(11) 新しいアイディアが浮かぶ、生まれる
(12) コミュニケーション能力を養う~無意識に自分の言葉でメモを取っている
(13) 問題意識の強化
メモ行為が、問題意識の表現。その人のメモの数だけ、問題意識が存在するということ
A4版1枚にまとめたこの補足教材で、“なぜメモが重要なのか”を説いています。20分は要するでしょうか。相手がどなたであろうとも、約束事は100%メモすることが躾化されていなければ、社会人失格、大人失格だ、というのが私の基本的見解です。何らかの事情で忘れてしまうことは、人間どなたにも起こり得ます。ですから、特に約束事をメモに残すことは、安心と信頼の対人関係構築のためのリスクマネジメントにもなりますね。
エッセイ133回の前文で紹介いたしました元祖ID(Important Date)野球の野村克也氏は、自著「ノムダス 勝者の資格」(ニッポン放送プロジェクト1995.11第1刷発行)において、メモの重要性を述べられています。
自らを“昔からのメモ魔”と称する野村氏は、メモ帖の絶対条件として、“丈夫であること”と“ポケットに入れて携行できること”の2点を挙げています。その上で、“なぜメモが大事かというと、メモが癖になると、“感じること”も癖になるからだ。人より秀でた存在になる不可欠な条件は、人よりも余計に感じることである”と述べています。以前、確か“鈍感さが一番の敵”というような野村氏のボヤキを聞いたことがあります。同感です。私の考える教育担当者に求められるスキルには、“感受性、問題意識、好奇心、想像力”をセットで入れております。(参照:エッセイ132回)
今回のテーマから脱線しますが、安心と信頼のコミュニケーション実現の処方せんが、同著の中で述べられていました。併せて紹介しておきましょう。
一つは、コトバの意義についてです。“精神的に弱りはてたとき、何が支えとなり、何が新たなエネルギーをもたらしてくれるか ― 私の場合は、もう「コトバ」しかない。勇気づけてくれる言葉=基本原則のみが、私を支えてくれ、精神をコントロールしてくれるのだ”。
もう一つは、聴き方の有り様についてです。“適度にうなずく”、“適度に相槌を打つ”、“顔を輝かす”、“話し手を正視する”。この四つが聴くときの基本(原則)と言い切っています。
本題に戻ります。
ICT(information and communication technology)の急速な進展は、忙しない現代においては喉から手が出るほど欲しい便利さを、いとも簡単にもたらしてくれます。知りたいことは、身近な情報通信システムを通して、誰もが、リアルタイムに、容易に、そして安易に検索できるようになりました。ほとんど抵抗感なしに、気軽に手軽にコピペ(copy&paste)することが常態化しています。いちいちメモすることが、何とも間怠っこしくなります。効用も含めたメモの必要性なんて、もう廃れてしまった感があります。10年のスパンで比較すれば、真剣に集中してメモを取る姿は、明らかに少なくなりました。もう社会のインフラとして確固たる地位を築いたICTツールは、これからも私が予想つかないほどの進化を遂げ続けるでしょう。
私はこう感じております。ICTのメリットとデメリットを都度明らかにして、その上で、活用のあり方と活用方法を整理整頓して対処しなければいけないと思います。何事も、便利さに慣れてくると、安易にその便利さに寄りかかってしまいます。そのことに気付かないでいると、思考停止という自己責任を放棄する病いにつながってしまうかもしれません。そんな恐れを膚で感じることが増えました。便利さが病気に発展することもあり得ることを、心のどこかに刻みながら、便利さを上手に活用しながら共生していかなければ、と願うばかりです。
古希を過ぎた私は、明らかに旧人類、否、もう旧々人類です。数値化すれば、アナログ:デジタル=80~90>20~10あたりでしょうか。こんなアナログ人間の見解ですから、どれだけ受け容れて頂けるのか、限りなく不透明ですが、アナログの良さもありますから、ここは踏ん張って今回のまとめといきましょう。
私の場合、メモの中身は、“教わった事、学んだ事”、“約束事”“感じた事”がメインになります。それ以外では、“気づいた事”、“気になる事、気になった事”、“思いついた事”などもあります。また、“教わった事、学んだ事を、持ち帰ってどう活かすか”のメモは、目的意識の高さに比例して質量ともに増えていきます。
人一倍メモをとるようになって、感受性や問題意識が明らかに高まったと感じています。さらに、相手の立場を考える、一歩立ち止まって考えることを、かなり意識するようになりました。キチンと想像する時間も増えたと思います。それらの高まりは、何か変だと感じる嗅覚や皮膚感覚を研ぎ澄ましてくれます。科学的根拠は何もありませんが、そんな私の感覚を信じたいと思います。
メモ習慣化・躾化(=メモ魔)の効用を、改めて考えてみました。
(2017.6.20記)