エッセイ140:「考えるとは?」を、行為レベルで考える

投稿日:2017年7月5日

 平成29年3月卒者の就職活動(以下、就活)が本番の時期になりました。
 私が新卒採用を担当するようになって、かれこれ31年になりましょうか。16年前からは薬学生がメインとなりました。初めて薬学生と接した時、多くの薬学生の就活実態に大きな衝撃を受けたことが思い出されます。“これが薬学生の就活なんだ!?”、“これで良いのだろうか?”、“これで通用するの?”というような、意識の低い緊張感が希薄と受け取られても致し方のない実態に、ただただ唖然としたのでした。その光景が、今でも頭から消えることはありません。
 就職先の方向性を訊くと、病院の比率が高かったですね。調剤薬局が続きます。さらに、その理由を問うと、採用担当者として耳を傾けたくなるような返答が、(余りにも)少なかったのです。それも、10人10色ではなく、概ね同じようなグレー系の色合いでした。
薬剤師の任務をどう捉えているのか知りたくて、“薬剤師法第一条には、何が書かれてありますか?”と確認をします。残念ながら、満足な回答が得られないのです。薬剤師法第一条のタイトルさえ答えられない方がいました。怪訝そうな視線で、その場を立ち去る学生もいました。現在でも大差ありません。何十年間も続いている薬剤師超売り手市場が、問題意識の希薄な視野狭窄ステレオタイプの薬学生を、自立心の乏しい受身タイプの薬学生を量産してしまったように思います。
 採用側にも問題がありそうです。求職学生一人ひとりが自社の求める人材像にマッチしているか、そのことを採用担当者がキチンと評価してしているのだろうか、という疑問です。さらに、人間的側面や個性、将来の可能性など、どれだけ多面的に観察評価して内定を差しあげているのだろうか、…… 疑問が膨らみます。薬剤師不足であることを理由に、人物評価は二の次で薬剤師の卵に内定手形を乱発している姿勢に対する私の問題意識は、変わることなく失せないのです。
 薬学部で学んだ方々の職能は、想像以上に間口が広くバラエティーに富んでいる、と私は考えています。そこで、“将来何をやりたいのか”、“どのような人間を目指したいのか”、“学んだ学問で何を見出したいのか”、“どのような仕事で社会と共生したいのか”、“学んだ学問を活かしてどのようなことで社会と関わっていきたいのか”、そして“どのような薬剤師になりたいのか”、などを明らかにすることが就活の出発点、と薬学生には長いこと問いかけております。しかし、そんな私の問いかけに対する反応は、ますます薄くなっているように感じます。一方、その程度の就活でも、他の職種に比べて職を得ることに困ることがありません。そんな風潮を横眼で見ながら、企業研究の基本的なあり方に対する疑問は、相変わらず膨らむ一方なのです。最近では、他人事のように眺めるしかできない自分に対しても、自虐的に腹が立ってしまいます。
 しかし、私は諦めずにアドバイスしたいと思います。
 『薬学生よ、もっともっと己の心身全体を使って、これから何十年も続く自分の将来を真剣に考えなさい。薬剤師の職能は国民から負託された誇るべき任務であることを覚悟し、自分自身の生き方と人生観を明確にすることから逃げないで、自己責任意識で意思決定しなさい』と叫びたいのです。薬学を修めた者の職能の巾を狭めないで、視野を拡げいくつもの着眼点を動員して考え、自分の将来を決めて欲しいのです
 そんな思いを募らせながら、“考えるとはどうすることなのか?”を啓発的に綴ってみたいと思います。エッセイ第93回(2015.5.30記)を、人材育成という視点で教育担当者向けに書き直してみました。

「考えるとは?」を、行為レベルで考える

 何かにつけて便利さが優先される世の中になりました。
 コンビニエンスストアでは、そのお店の取扱商品であれば1年365日24時間購買することが出来ます。いつでも入手可能ですから、生活者には買い置きの必要性が薄くなります。何らかの事情でも無い限り、必要になった段階で買いに走れば事足りるでしょう。事前にあれこれ考えなくても、日常生活に支障をきたすことも少なくなりつつあるのです。流通企業にとって、消費者ニーズを先取りした利便性追求競争は、今後も生き残り策の一環として激化していくことでしょう。
 そのような中での私の(老婆心的な)心配事は、便利さが進展すればするほど、全身を使って考える必要性が減っていくことです。別の言い方をすれば、思考停止が徐々に進んでいきはしまいかという危惧のようなものです。それ以上に恐ろしいのは、そのことに気づかないばかりか、日常生活における問題意識が低下してしまうことではないかという気もします。
 もう一つは、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」現象が、相も変わらず気になることがあるのです。災害にしろ、不祥事にしろ、突発的な事故にしろ、取り返しのつかないような経験を教訓として、備えを疎かにしてはいけないことへの格言なのでしょうが、その出来事がいつの間にか忘れ去られてしまうのも実状なのです。「人の噂も七十五日」の通り、特に他人事であれば、時の経過とともに多くの出来事は消え去っていくのです。大多数の生活者がそうであるように、日常生活で精一杯の状況であればあるほど、その傾向は無理からぬことと思いながらも、「喉元過ぎれば…」のような事態に気づいたなら、私自身に対する自戒として、こう言い聞かせると決めています。
 そのような傾向は誰もが持ち合わせている人間の必然的心理現象と認めた上で、“喉元過ぎても熱さを忘れない。考え続けるべし”と。
 
 ここからは、前途有為な若人に物申したい、特に薬学生に物申したいと思います。日々の生活では、些細なことでも“何か変だ?”と思うことがありますね。そんな時に、ちょっと立ち止まって想像の羽を広げることは無駄なのでしょうか!感受性も、好奇心も、問題意識も、無益なのでしょうか!私には関係ないからと、面倒だからと、その場の雰囲気に流されて向き合うことを止めて良いのでしょうか!思考停止に近い状態で、今後の人生を歩んで良いのでしょうか!……
 私は思います。考えるという行為こそが、将来の生きがいに辿り着くプラットフォームだと。そこで、現状実態に気落ちしながらも、考える行為の啓発目的で、“考える”ということを「○考」という形で表現してみました。

      足考:行動することは、足で考えること。
      手考:メモすることは、手で考えること。
      口考:言葉に感情を添えて表わすことは、口で考えること。
      目考:観察することは、目を凝らして考えること
      頭考:感じること、疑問に思うこと、興味を抱くこと。
               そして、掘り下げること、組み立てること、深化させることは、頭を使って考えること、脳で考えること。
      耳考:傾聴することは、耳を研ぎ澄まして考えること。
      指考:温もりや肌触りを感じることは、指先を使って考えること。
      顔考:思いや情緒を表情に表すことは、顔全体で考えること。
      心考:相手の気持ちを想像することは、心で寄り添って考えること。
      書考:書き表すことは、言葉に魂と思いを添えて考えること。

 こうやって視点を変えてまとめ直してみれば、考えるという行為の巾の広さと奥行きが見えてきます。これらの「○考」は全て考える行為を表しています。これらの「○考」を認識して、日々全身で考えるという行為を実行することは、脳活性化の自己啓発になります。視野拡大につながります。ちょっと意識してその気になれば、「○考」の機会は身の周りに数多く存在します。ステレオタイプが巾を利かせている昨今、考えることの意義、考える行為の実例を掘り下げながら、問題意識を高める行為の実践を奨励し続けたいと思います。

 最後にひと言。
 本文の冒頭で申しあげた便利さを、全て否定している訳ではありません。決して、全てを悪者扱いしているのでもありません。大切なことは、少しでも納得のいく意思決定を可能にするには、全身を使って考えることではないか、ということを問いかけたいのです。考えないまま借用で済ますことは、責任を放棄したことになります。考えることの躾化は、一生涯の修養道だと思います。
 人事教育担当として31年間、ほとんど毎年のように新卒新入社員の育成に直接関わってきました。学歴は様々です。16年前からは、ドラッグストアや調剤薬局での新入社員研修に携わるようになりました。それ以来、つくづく感じていることがあります。それは、議論が弾まない、という実感です。課題解決を目的としたグループ討議では、議論内容の深まりが期待できなくなりつつあるのです。考える必要性を感じなくなったのか、考える余裕がないのか、考える行為が滅びつつあるのか、…… 。何故そうなのか、ずっと考えさせられています。そんな私のトラウマが、今回のエッセイを書かせたのかもしれません。
                                                            (2017.3.26記)

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