エッセイ112:あの大震災から5年になります

投稿日:2016年4月20日

 昨年(2015年)は、忘れてはならない数々の出来事が節目を迎えた年でした。
 30年前の日本航空123便御巣鷹山墜落事故、20年前の阪神淡路大震災とオウム真理教地下鉄サリン事件、そして太平洋戦争が終戦から70年目の年でした。
 年を重ねる毎に、新たな事実や真相を知ることになります。その中でも、被害にあわれた方、被災された方、そして様々な形で関わりを持たれた方の思いには、ただただ聴き入るしかありません。想像することが憚られ場合もあります。何かを問いかけられても、声を発することすら適わない気がする時が多いのです。私に言えることは、忘れないことでしょうか。明らかになった真実に耳を傾けることでしょうか。明日3月11日は、東日本大震災の日ですね。

あの大震災から5年になります
 
 先週あたりから、東日本大震災に関する特別番組が多くなりました。かなりの紙面を割いている新聞の特集記事には、自然と目が惹かれます。今日の岩手版の中には、“岩手県内被災自治体で不足が見込まれる応援職員が70名に上る”、“震災の復興業務に携わる任期付き派遣職員が、宿舎の仮設住宅で死亡しているのが見つかった。自殺とみられる”の記事がありました。何とも言いようがありません。放映される大津波の映像は、私の弱ってきた心臓に強い衝撃として押し寄せてきます。その圧迫に耐え切れそうもない感触が、年々増してきたように思います。
 明らかになった実態や真実も増えてきました。その範囲は多岐に亘っています。その多くは、改めて考え直さなければならないことです。一つひとつ地道に解決するしかないのでしょうが、そのことを簡単に口に出すことができそうにないほどの難題です。被災地の行政の皆さんも、如何ともし難い現状を目の前にしながら、限られたマンパワーで尽力されているのですから。
 仮設暮らしの方々のお話し、遠方で避難暮らしをされている方々のお話しには、ただ黙って傾聴するしかありません。目を逸らさないで、聴き入るしかありません。数日前に、両親を津波で亡くされた幼い兄弟の5年間のルポルタージュが放映されたそうです。これからも心のケアを含めた支援が欠かせません。町の薬剤師には、そんな志事が待っている気もしながら……。
 福島原発事故の影響を受けていらっしゃる方々には、何重もの苦を強いていることになります。この状況がどれだけ続くのでしょうか。自宅に立ち入ることすら許されない方々の心情には、気休めの想像力なんて何の役にもたちません。帰りたいけれども、帰ることが叶わないという諦念感に対しては、その思いを受け留めるだけで精一杯になります。何を感じようとも、結局は他人事にしかなり得ません。そんな自分自身に対して、腹の立ちようもないほどです。
 様々な復興調査データも目にします。それにしても、復興のイメージは、千人千色だと思います。その千色の色模様には、簡単な比較ができないほどの違いがあるでしょう。立場の違い、被災場所の違い、被災実態の違い、職業の違い、仕事環境の違い、家族状況の違い、避難場所の違いなどによって、それぞれ大きく異なるのだと思います。そして、未だに行方不明の方が2600名近くもいらっしゃるのです。
 あの大震災から、明日で丸五年になります。
 「キチンと向き合いましょう」。私が問題提起するときの口癖の一つです。しかし、東日本大震災による津波と原発事故の被災実態を目の当たりにして、その口癖を安易に使ってはいけないと思うようになりました。阪神淡路大震災、日航機御巣鷹山事故、SARSと闘って亡くなられたカルロ・ウルバニ博士の活動、エボラ出血熱に感染して亡くなったウマル・カーン医師と医療従事者達のケネマ国立病院(シェラレオネ)での活動、… 知らないことが余りにも多過ぎるのです。東日本大震災にしても、実態のほんのコンマコンマ…何パーセントすら知らないのです。その自覚からスタートしなければいけませんね。毎年…、毎年思い知らされることです。
 そんな中で、私にできることは何だろうか?そう自問自答することだけは、続けようと決めております。それは、「反省したままで終わっていませんか?評論家で終わっていませんか?」、「どのような行動を起こしているのですか?」に尽きるのです。4年半前から始めた「被災地を知る啓発活動」、「大震災から学び考える活動」、「日々の仕事や考え方、そして心構えを見直す活動」を継続することが、私にできる当面の目標として継続したいと思います。
                                                                               (2016.3.10記)

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