エッセイ109:継続して行動することの意味を考える

投稿日:2016年3月4日

 マザー・テレサ(1910 ~1997)が残した言葉の多くは、医療倫理を考える時の根源となる問いかけではないか、と思えてきます。その表現はシンプルで分かり易く、心に凛然と響いてきます。しかし、時代背景やその全活動実績(理由も含めて)を知れば知るほど、私ごときがこうやって取りあげることすら憚ってしまいます。恐縮しながら、心の姿勢を正して一つだけ取り上げさせて頂きます。

「この世の最大の不幸は、貧しさや病ではありません。だれからも自分を必要とされていない、と感じることです」

 インドのカルカッタ(現在名コルカタ)の路上に倒れている多くの病人に対して、開設した「死を待つ人々の家」というホスピスにおいて、限りある数少ない薬を投与しました。その病人たちは、その薬で助かる可能性のない方々です。それなのに、何故使ったのでしょうか。
薬を使うのは病気を治すことではなく、“有難う”と言って感謝の笑顔で死を迎えて欲しい、という理由からなのです。ちなみに、マザー・テレサはカトリック教会の修道女ですが、亡くなられた方の看取りは、その方の宗教・宗派を尊重して執り行ったそうです。
 またノーベル平和賞授賞式のインタビューでの「世界平和のために私たちはどのようなことをしたらいいのでしょうか」という問いに対しては、「家に帰って家族を愛してあげてください」と答えています。あの有名な「愛の反対は無関心である」を思い起こします。
 それらに共通する根源は、日常の人間愛そのものではないでしょうか。直接間接を問わず医療に関わる人間への、職務遂行上の土台となる仕事観熟成の重要な問いかけではないでしょうか。
 マザー・テレサに思いを馳せた、師走初めのある日の夕暮れ時でした。

 エッセイ109回は、継続して行動することの意味を考えてみたいと思います。

継続して行動することの意味を考える

 目標達成へのスタートラインは、「決心」することから始まります。“何らかの行動を起こそう”と心で決めることです。
 しかし、決心しても目標に向かって行動しなければ実現には至りません。決心したことを、迷わず実行する「決断」まで高めなければなりません。苦もなく達成できそうな目標であれば別ですが、ハードルの上がったストレッチ目標の場合には、(大げさに言えば)煩悩を捨ててキッパリと肚を括った決断が行動促進剤となります。決心を決断まで強めることが、後顧の憂いを振り切って積極的な行動へと導いてくれます。「やります」という心の姿勢の芯を強化して、信念まで高めてくれるのです。それが業績魂を燃やし続けるエネルギー源にもなるのです。
 それでも第一歩を踏み出せない場合があります。迷いや恐れが上回って、“明日にしよう”、“明後日でもいいや”と先送りしてしまうのです。気がつけば信念が揺らいでしまい、折角高めた決断の灯が消えてしまいそうな自分がいるのです。直ぐに着手しなくても、当分は眼に見える影響が現れそうにない場合がそうです。身の回りの現実は、そんな事態が似たり寄ったりではなかったか、と思えるのです。
 それでは、どうするべきか … 。
 決断したら間髪入れずに「決行」することです。思いっ切りスタートダッシュするのです。眼をつぶってでも発進するのです。
 それでも閻魔様は立ち塞がります。業績主義主流の今の時代、即効性(或いは速効性)が最優先評価事項ですから、日々期待する成果を求められます。しかし、直ぐには成果が顕われないのです。なかなか答えが出てこないことの方が、ずっとずっと多いのです。決断し決行したとしても、いつの間にか、嫌々の三日坊主(一日坊主かもしれません)を繰り返すことになります。気がつけば行動計画は中断しています。これでジ・エンドです。頻繁に見聞きしてきました。
 わざわざ登場して立ち塞がる閻魔様の真意は、“失敗は成功の母なり”、“だから、もっともっと試行錯誤しなさい。努力し続けなさい”、“成果に行き着くまで歩き続けなさい”、ということなのですが、その真意に気づくまでには多くの実のある失敗体験が必要かもしれません。この件は、機会を改めて申しあげたいと思います。

 結局、成果への道のりは、いかにして行動の継続を維持し続けるかにかかってくるのです。
 先ず、ありがちな行動習慣、陥りがちな行動習慣を考えてみたいと思います。
 通常、“意志が強いと継続できる”と思いがちですが、果してそうなのでしょうか。先ほど申しあげたように、成果が見えてくるまでには時間を要しますから、“このやり方でいいのだろうか”という手探りの中で進めることになります。暗中模索、試行錯誤の連続です。そのような状態が、スタート時の小さな不安や迷いを増幅して、徐々に行動制御へと働きかけていくのです。決心して決断し、決行したことが途切れ途切れになって、行動の継続に綻びが出始めます。そうなると、“私は何て意志が弱いことか”と自己嫌悪の芽が顔を出します。意志が弱いというのはマイナスイメージですから、どうしても否定的になりがちで、知らぬ間に行動停止の方向へ舵を切ってしまうのです。以上のパターンは一例に過ぎないかもしれませんが、意志の弱さを問題にすると陥りやすいパターンではないでしょうか。
 話を進めましょう。
 そこで向き合いたい視点は、意志ではなく、“やりたい”、“やってみたい”という意欲なのです。意欲で行動の継続へと引きずり込みたいのです。意志の問題は“行動は何とか継続できれば良い”程度に留めて、いかにして意欲を掻き立てるのかを問題にしたいのです。
 ここからが、今エッセイのクライマックスです。
 意欲を掻き立ててくれるファクターは三つあって、それらのミックスブレンドこそがキーポイントになると考えています。エッセイ71回で取りあげました、「使命感」、「自己確信」、「好きであること」の三つの要素のミックスブレンドのことです。アベノミクスをもじって、イヨク(意欲)ミクスとでも命名しましょうか …… 。そして、イヨクミクスを木の幹とすれば、それらを支える根っこ(土台)こそが、行動継続を生み出す最も重要な要因ではないかと思い続けて、現在に至っております。そして、その最重要となる要因は、今までのエッセイで何度となく取りあげました「純粋な志」、「明確なビジョン」と位置づけているのです。

 今回のエッセイのタイトルは、「継続して行動することの意味を考える」でした。ピントを絞って、まとめ直してみしょう。
 継続行動の意味は、“成果への王道であり、結局は近道なのである”という結論に達します。王道(=継続行動)を歩み続けるには難しい側面もありますが、“やりたい”、“やってみたい”という意欲に着目し、意欲を維持する土台となる「純粋な志」と「明確なビジョン」を意識した志事の進め方を身につけることをお奨めしたいと思います。
 最後に、もう一言付け加えさせてください。
 長い年月をかけて積み重ねて追究する生涯学習(ライフワーク)テーマを、一つ持たれてはいかがでしょうか。当然“やりたい”、“やってみたい”というテーマでしょう。そのライフワーク追究の過程において、“行動を継続することの意味”や“行動を継続する原動力が何であるか”が、ある時、見事に結晶化するのだと思います。
 以上が、私の現時点での心境でした。

追:決断の選択肢は、行動の継続が全てではありません。中止や休止もあります。仕切り直しだってあるでしょう。今回のエッセイは、継続行動が成果に直結する時のケーススタディとして呟きました。付記させて頂きます。
                                                                (2015.12.3記)

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