小説「レッドゾーン」をご存知でしょうか。医師で作家の夏川草介さんが、新型コロナウィルス禍におけるご自身の経験を踏まえて書き下ろし、昨年夏に上梓しました。2022年11月16日(木)付け朝日新聞には、その作品に込めた思いのインタビュー記事(聞き手・熊井洋美さん)が掲載されています。その最後の問い“作品で伝えたかったことは?”の回答の中で、特に私の心に残っている部分があります。「 … 。一人一人の医療者をみると、高い理想を持って真剣に頑張っています。そういう面を伝えたいのです。医療は万能ではありません。目の前にいる人たちと力を合わせるという感覚を大切にしたい。その思いはコロナ前から変わりません」という件(くだり)です。
夏川さんの医師としての思いは、薬剤師にも共通する思いであって欲しいと強く願っております。長いこと言われ続けている“かかりつけ薬剤師”という表現は、もう色褪せてしまったように感じることがあります。私だけの感触かも知れませんが、そんな姿に生気を取り戻さなければならない瀬戸際状態は、疾うに過ぎてしまったような気がしております。これとて私見ではありますが、取り戻すための方途は、実は決して難しいことではありません。どなたにも出来るコミュニケーションのことですから、実行するかしないかだけの問題なのです。今回のエッセイは、そんな思いを呟きたいと思います。
患者の思いを引き出しましょう。日常会話で引き出してみませんか。寄り添うとは、患者の思いを引き出すことなのです。
この十数年間、私が患者として七ヵ所の薬局でお世話になりました。現在も複数ヵ所から処方薬を頂いております。先ず、受付で処方箋をお薬手帳に挟んで手渡します。保険証の提示を求められることもあります。しばらくして名前が呼ばれます。処方された薬と服薬方法の確認があって、最後が会計です。一度だけでしたが、名前を呼ばれて会計だけという薬局もありました。調剤業務の待ち時間を除けば、対面で接している時間は、ほんの数十秒から1分強でしょうか。“お変わりありませんか?”などの病状に関する質問が出ることもありますが、稀というのが実感です。訊ねられたとしても、私の病状を把握するための質問とも思えません。単なるマニュアルトークとして受けとめるようになりました。私の薬歴が存在するとしたら、保険証記載事項と全処方内容、初回利用時に書いたアンケート用紙の記載項目以外の情報はゼロだと思います。病名は処方薬で判断できるでしょうが、職業、症状、日頃感じている不安や悩みなどを訊かれたことは、この十数年間ほとんど記憶にありません。私が薬剤師有資格者であることも、当然ご存知ないでしょう。患者である私からの質問を促されたこともありません。少しだけ訊き方を工夫すれば、会話が弾むと思うのですが……。例えば、“今日の血圧は……?”、“コレステロールの数値は……?”、“飲み忘れることはありませんか?”から始めるだけでも、患者の日常の生活実態を探ることが出来るでしょう。又、お世話になった全ての薬局は、待合室が手狭な上に立ったままの対面窓口ですから、じっくりと対話できる環境ではありません。七ヵ所の薬局とも、処方箋をお渡しして会計が済むまでの一連の対応は同じ景色で、何ら特色と思えることを感じたことは無かったと思います。これが、私が利用している調剤薬局の現実の姿なのです。
今回、そんなことを振り返りながら、「かかりつけ薬局」とか「かかりつけ薬剤師」って“どのような薬局・薬剤師を指すのだろうか?”と、改めて考えさせられております。私が患者としてお世話になった薬局で、私の過大とは思えない事前期待を満たしてくれた薬剤師は、残念ながらいらっしゃいません。そんな経緯から、私が患者として思い描いている薬剤師・薬局に期待することを一つだけ申しあげたいと思います。その気になれば、直ぐにどなたでも実践できることです。
それは、処方薬を渡す時、ごく普通の日常的な会話をして頂きたいのです。“今朝は寒かったですね”、“暖かくなりましたね”、“桜が見頃ですね”で良いのです。敷居の低いリラックスした日常会話を通して、これからずっと関わっていく患者とのラポール(相互信頼)を目指して欲しいのです。言い方を変えますと、もっと患者の思いを引き出したいのです。その時々に抱えている不安や心配事を、対話を通して引き出すことで、その患者の日常生活の質的側面を察して頂きたいのです。処方薬や服用方法を確認することは当たり前のルーティーンですが、それと共に大事なのは、患者の思いや生活環境を知ることだと思います。生活環境というのは、主にQOL(Quality of Life)とADL(Activities of Daily Living)のことです。そこまで立ち入ることを望まない患者もいらっしゃるかも知れません。しかし、それらを知ることで、共に力を合わせて解決できることのメリットの方が格段に大きいはずです。そこに至る試行錯誤は、薬剤師としての当たり前の責務ではないでしょうか。私見になりますが、調剤薬局の現場は、処方箋から得られる情報と日常会話・対話を通して、人(薬剤師)が人(患者、その家族、生活者)に寄り添う場だと思います。人(薬剤師)と人(患者、その家族、生活者)が向き合う場、学び合う場、関わり合う場、響き合う場ではないでしょうか。薬剤師にとっての人(患者、その家族、生活者)は、持病はもちろんのこと、生活環境や病気に付随する何らかの悩みや心配事を抱いています。“助けて欲しい”という事前期待を抱いて、薬局の扉を開けるのです。
もう少し、呟きを掘り下げてみたいと思います。事前期待の内容と程度は十人十色でしょうが、いずれの場合も対応する薬剤師の言動によって行く先が決まってしまいます。主導権を握っているのは、ほぼ100%薬剤師だと思います。そのことを心底認識しさえすれば、かかりつけ薬剤師として自然体で患者に寄り添うことが出来るはずです。人の思考&行動姿勢は、言葉としぐさに表れます。それが、微妙に伝わると覚悟して、患者や生活者と相対することからスタートしなければなりませんね。その上で、日々相対する人(患者、その家族、生活者)と『寄り添う』『向き合う』とは“どのような対処をすることなのか”、その都度考えながら状況対応することになります。一人ひとりへの個別対応になりますから、20人の患者であれば20通りの対応策を考えて行動しなければなりません。寄り添うとか向き合うということは、専門能力を駆使しながらも、日常会話と対話でコミュニケートする仕事であることを苦にしないで対処することだと思います。ですから、経験が少ない若い薬剤師は、数多くの失敗を重ねるでしょう。失敗と自覚しないまま素通りすることも数多くあるかも知れません。薬剤師の使命を果たすためには、相手へのお役立ちの精神で日々仕事に臨むことが大切なのです。正しく、日々の仕事姿勢そのものがサスティナブルでありたいのです。寄り添うとは、何気ない日常会話と対話を通して、患者の思いを引き出すことです。話下手で構いません。口数が少なくて良いのです。人間対人間という間柄の対話をすることです。以前同じ会社で採用の仕事に携わったMさん(参照:エッセイ269回)は、お役立ち精神で徹底して患者と対話する薬剤師でした。
改めて、申しあげたい!投薬時、積極的に日常会話して頂きたい。日常会話を通して友好信頼関係を築いて、キチンと対話する道を歩んで頂きたい。それがかかりつけ薬剤師の前提要件だと思います。私は40年近く採用と人材育成の仕事に携わってきました。これまでの取組み姿勢と仕事の足跡を振り返りながら、今回の問題提起に行き着いたのです。
EDUCOいわて・学び塾主宰 井上 和裕(2023.8.19記)
【参考①】エッセイ269回:あの人は、今何をしているだろうか?(2022.10.31記)
【参考②】ADL(Activities of Daily Living)とは:自立生活の指標で、日常生活を送るために最低限必要な日常的動作。具体的には、起居動作、移乗、移動、食事、更衣、排泄、入浴、整容などの動作。