※ 昨年11月6日に書き上げましたエッセイです。
昨年1月中旬から騒がれ始めた新型コロナウイルス禍は、私にとって自由に使える時間を増やしてくれました。この数年体調が優れない私の場合、その時間を優れない体調のアレコレを考え込む時間、考え過ぎる時間に充ててしまったのです。最悪の事態を想定して準備万端整える習慣癖が、優れない体調の行く先を深刻に考え過ぎて、メンタル面にも悪影響を及ぼしてしまいました。気がつけば迷路で彷徨ってしまい、出口が見いだせずに右往左往しているのです。予期しなかった精神面の不調には、お手上げ状態がしばらく続きました。フルタイムの仕事に従事していた時には、目先の仕事で手いっぱいでしたから、多少の不調など吹き飛ばしていました。その当時は思ってもみなかった悩み事に、この年になって出会っているのが実態なのです。現在の私の様な方に出会った時、私はどのような対応をしていたでしょうか。謙虚に振り返ってみれば、他人事の対応であったことが明らかでした。そんな中で、“年を重ねるということは、こういうことなんだ”と実感することがありました。この1年半の心理状態からすれば弱音のオンパレードになりそうですが、そんな私の気持ちを綴ってみようと思います。調剤薬局保険薬剤師は、高齢者と向き合う機会が多いのではないでしょうか。今回のエッセイが、何らかの参考になれば嬉しい限りです。
年を重ねるということは…
ひと月ほど前に75才を迎えた私は、以前から血圧を下げる薬など6種類の薬を服用しています。さらに、4月からの手術後には、さらに最大で7種類の薬が増えました。服用する薬は、朝昼夕そして就寝前と異なります。1日3回の薬もあれば、2回の薬、1回の薬とあって、服用管理には苦労しました。頭の活性化と考えて対処した記憶が残っております。
私の高血圧症治療がスタートしたのは58才の時でした。還暦を目の前にして、身体の異常や衰えを実感したのです。それまで殆んど気にもかけていなかった自身の健康や今後を、かなり意識するようになりました。以来、検査結果や実際に感じる症状などから、一つ二つと生涯を共にする治療薬が増えて現在に至っております。薬の副作用や相互作用の影響を意識することもありますが、現役薬剤師からアドバイスを頂いております。また、手足のしびれやめまい・耳鳴りに悩まされては、その都度検査を受けたこともあります。2年前からは部分入れ歯のお世話にもなりました。食事後の手入れという面倒がついて回ります。さらに、口内が乾いて舌を噛む、チョッとしたことでつまずく、季節の変わり目の腰痛など、挙げたら限がありません。身長は一番高かった時から5㎝も減りました。当然歩幅も狭まり、歩行速度もダウンしています。食べ物の咀嚼力、飲み込む力も衰えてきました。50才半ばまでは、頭の片隅にもなかったことです。
ある時、いくつかの泣き言を、家内にフッと漏らしてしまいました。しばらく間をおいて、家内はこう呟いたのです。“年を重ねるということは、多かれ少なかれ、心身の衰えや痛みが積み重なるということなんだよね。先ずは、そのことを自覚しなければならないね”と。“生涯現役で仕事を続けたい”志向でやってきた私は、常に心技体のバランスが及第点であると勘違いしながら対処していたのでしょう。古希を通り越しても、60才前半のつもりで、日々仕事に臨んでいたのです。現実を直視すれば、70才半ばの心技体の現実は、自分自身の思い(常に心技体のバランスが及第点である)とはかけ離れているのです。家内の呟きは、そのこともやんわりと指摘してくれたことになります。改めて気づかされたことを、整理整頓してみたいと思います。
年を重ねるということは、ある年齢をピークとして、あちこちの身体機能が徐々に下降線をたどり、機能維持が衰えるなど、今までのあり様とは異なってくるのです。抵抗力が衰えて、身体のアチコチにそれまでにはなかった異変を感じるようになります。その始まりは、気が付かない程度の些細な異変ですから、小さな自助努力で対処される人もいらっしゃるでしょう。多くの方々は、“まだまだ無理は利くのだ”という意識が優先して、公私における目の前の課題解決に注力しているのが殆どだと思います。しかし、気がつけば、生涯お付き合いしなければならない持病になることもあり得ましょう。私の場合はそんな実態でしたし、友人知人からも同様の声を聞きました。ここまで書き連ねたことを改めて思い返しながら、今回の家内の呟きに端を発して、“年を重ねるということ”について、以下のような考え方に行き着きました。
先ず、心身の機能低下は避けては通れない自然的当たり前であることを、キチンと認めることからスタートすることにしました。認めようとしない頑固で過剰な自意識が、受け容れることのできないストレスとなって、無理や歪みを生じさせます。状況次第では、メンタル面にも影響してきます。“こんな筈ではない”という焦りに苛まれないようにしたいと感じております。そのように考えてみれば、年々衰える体力と向き合って、無理のないより良い付き合い方を模索することですね。新たな病気が発症したら、それを受け容れて、これからのあり方や生き方を見つけて病気と共生することですね。丈夫であった時の頃と比較して、その状況に戻すことにシャカリキになるのではなく、穏やかな気持ちで実態に則した生き方を考えて受け容れることです。そのような簡便で理に適ったやり方を、PDCAサイクルを回すが如く、素直に実践することではないかと思うに到りました。
しかし、上記のように言い切ってしまいましたが、かなり難しいテーマだと思います。気弱な性格の私であれば、考えが収まるまで時間を要するでしょうし、何らかの壁が現れたら気が動転して右往左往すること必至と想定できます。これからも向き合い続けなければならないテーマでしょう。いずれにしても、年を重ねていけば、それだけの年月をかけて積み上げた努力によって溜まった澱によって、身体のあちこちに影響が出てきます。このプロセスは、程度の差こそあれ、どなたにも共通する自然の姿であることを、この1年半のアレコレがハッキリと気づかせてくれたのだと思います。
最後に、高齢者の方と向き合う機会の多い調剤薬局保険薬剤師の皆さんに、僭越ながらお願いがございます。私の様ないくつもの持病持ちの高齢者は、病状の差はあれ、ある程度の比率でいらっしゃると思います。今回紹介したことを少しだけでも受けとめて、それまでと異なった患者アプローチ・生活者アプローチのあり方を考えるきっかけにしてくれたら嬉しく思います。エッセイ227回で言及しておりますが、患者に対する医療プロセスを鑑みれば、患者にとって薬剤師はアンカーであり、アンカーだからこそ出来るサポートが、いくつかあるように感じることがあります。新型コロナウイルスの禍中で、私の視野は気付かないままに狭まっています。不安や恐れが、知らず知らずの内に、想像力や希望を蝕んでいました。後ろ向きの気持ちが増幅していました。先行き不透明ですから致し方ない側面はありますが、致し方ないでは心のフレイル状態が加速します。そんなことも感じた令和3年でした。弱音も含めて、お互いの思いを気軽に出し合うことができたら、心の重荷が軽くなるように思います。それが患者としての私の本音でもあります。次回以降のエッセイでも、患者の立場で感じたことを取りあげたいと考えております。
EDUCOいわて・学び塾・種蒔き塾 井上 和裕(2021.11.6記)
【参考】エッセイ227回:再度、地味な職種は何か(2020.11.7記)/エッセイ235回:遠慮しないで、もっと自分を褒めましょう。励まし合いましょう。(2021.5.10記)