エッセイ162:信頼と安心のコミュニケーション実現のための前提条件

投稿日:2018年6月20日

 今まで呟いてきたエッセイで、コミュニケーションに関する問題とあり方、そして基礎的知識やスキル修得について、かなりの頻度で取りあげました。テーマ別で括ってみれば、その回数はベスト3に入ると思います。仕事では当然として、私的な日常生活においても、コミュニケーションという手段が意思疎通の重要なファクターなのです。コミュニケーションを抜きにして、信頼を土台とした人間関係は成り立ちませんね。そのような思いが根底にあるからこそ、コミュニケーション関連のテーマを意識して取りあげたのだと思います。
 技術革新の波は、旧来のコミュニケーション方法を飲み込んで、そのあり方の本質さえも変えようとしている気がします。しかし、簡単な言葉や画像のやり取りだけで成立するほど、信頼と安心のコミュニケーションは単純ではありません。仕事であれプライベートであれ、多くの人の手を経て課題が解決されるのです。時代がどのように変化しても、信頼と安心を支えるインフラ(土台)は、コミュニケーションの質と量であることに変わりはありません。
 そんなことを思いながら、久方ぶりにコミュニケーションのあり方に言及したくなりました。信頼と安心のコミュニケーションを実現するための土台は何か、どうやって能力を磨きあげたらいいのか、改めて考えてみたいと思います。

信頼と安心のコミュニケーション実現のための前提条件

 コミュニケーションというのは、自分の思いや感情を伝えて“はいお終い”というものではありません。コミュニケーションの真意を強調するために、Two‐way(双方向)コミュニケーションという言い方がされます。One‐wayであればプロパガンダです。Two‐wayでなければ、コミュニケーションとは言えないのです。
 コミュニケーションの語源的な意味は、“ある共通なものを他人と交換し合う”ことです。定義づけすれば「コミュニケーションとは、なんらかの手段で、あらゆる情報、或いは意思・感情の伝達、交換、共有化を行なう活動」ということになります。現実の仕事場面では、顧客の対応(打合せ、商談、説明、対話など多種多様)、窓口でのやり取り、組織内での報連相(報告、連絡、相談)、チーム活動、意思決定に向けてのディスカッション、会議での質疑応答、ICTを媒介とした対話など、かなりのウェイトでコミュニケーションが介在します。そこには、直接か間接かを問わず、必ず相対する人が存在しているのです。常に申しあげていることですが、日常の生活環境を鑑みれば、自分一人では生きていけません。ですから、異なる考えや意見が存在することを認めて、問題や課題を解決するために、知恵を出し合って集約しなければ立ち行かないのです。さらに、関わりのある皆さん方は、意思決定したことを遵守する義務を負うことになります。これらは、コミュニケーションという重要なプロセスを経て陽の目を見ることになります。元来、組織運営において蔑ろにできないのがコミュニケーションであることが明らかです。30年以上も前に企業内教育担当に従事してから、常にコミュニケーションの重要性を意識して現在に至っております。
 一方、言動を含めたコミュニケーションのあり方が気になる場面があります。何年か前からは、特に気になり始めました。マスコミに登場する頻度が高い(=非常に影響力の高い)有名な方々だけではなく、日常の身の回りにおいても感じることです。一昨年の東京都知事選挙、昨年の都議会議員選挙や衆議院議員選挙における候補者や関係者の発言には、何とも言いようのないコミュニケーション能力の稚拙さを感じました。私が気になった言動の一部を紹介したいと思います。

“初めて聞く難しい言葉、抽象的なスローガンで終始する”(影の声:何を言わんとしているのか、何をされたいのか、見えてきません。理解できません。…)
“他政党の批判を声高に訴える”(影の声:あなたの政党に何ができるのですか?そう仰るあなたの政党の足元は大丈夫でしょうか?何とも聞き苦しい。…)
“選挙公約の理由や根拠、財源などの説明があまりにも少ない”(影の声:それでは支持できません。本当に実現可能なのですか?それでは信用できません。…)
“質問に対して、曖昧な言い方で煙に巻いたり、はぐらかしてしまう”(影の声:質問に対して明確に回答して欲しい!正直に回答して欲しい!上から目線で、何か見下されているように感じます。有権者を甘く見ないで頂きたい。有権者を馬鹿にしていませんか!…)
“何年か前の発言と異なる考えを、顔色変えずに訴える”(影の声:恥ずかしくないのでしょうか?カメレオンみたいで、信頼できそうにありません。…)
“何年か前と同じ政策を、選挙の度に掲げる”(影の声:今まで何をされてきたのでしょうか。言行不一致ではありませんか?実現不可能ではありませんか!…)
“一方的に弁明して、一切質問を受け付けない”(影の声:何が○○ファーストだ!自分ファーストではありませんか!本心は聴く耳をお持ちではないんだ。…)
“苦し紛れの答弁、間違った答弁を平気で繰り返す”(影の声:口は禍の元。覆水盆に返らず。厚顔無恥。…)…… 。
 ほんの一例ですが、脱線しそうですから、これ位で止めておきましょう。

 学歴、職歴などの経歴に圧倒させられる方々ですから、知識も語彙も表現力も豊富なのでしょう。巧みな話術で堂々と話されます。言い訳表現も朝飯前なのでしょう。しかし、繰り返し拝聴すれば、その場しのぎの発言を平然とお話しされていることが、透けて見えることだってあります。数年前の発言を、顔色変えずにひっくり返す発言にも出会います。自分本位の言い訳、質問に対して回答をはぐらかす言い方は、真剣にコミュニケーションを図る姿勢とは程遠いですね。支離滅裂な言い訳に至っては、感受性や倫理観・人間観を疑ってしまいます。また、傾聴姿勢を感じさせない姿は、自信がないことを自己証明しているとしか思えません。
 結局、固有専門能力がいかに高くても、共通専門能力は低いのだと判断せざるを得ません。特にコミュニケーション基礎能力はお粗末で、一般社会の常識には疎く、健全な庶民感覚も持ち合わせていないように映ります。使命感の塊だと錯覚しそうになる方もいらっしゃいますが、選挙の時の渡り鳥風景に接すると、もう信頼感は地に落ちてしまいます。
 綺麗ごとだけでは務まらないのが政治の世界なのでしょう。そんな姿を見せつけられると、少しは理解できなくもありません。しかし、発言する前に、場所柄・相手の状況・使う言葉の一言一句・表情などを、キチンと整理し整頓してから言葉を発するのが、政治家の基本要件ではないでしょうか。一度立ち止まって、言って良いのかどうか考えてから、覚悟の上で発言するべきだと思います。そんな潔さの一滴を見せてください、と申しあげたくなります。選挙の時だけ笑顔を振りまき、低姿勢で両手を握り、時には涙を流して投票をお願いされても、客観的な眼で観察すれば、政治家=自分ファーストの権化に見えてきます。在宅医療・予防医療も含めた地域包括ケアには、○○ファーストという考えは適合しません。二年以上も前から、○○ファーストなんて表現は勘弁して欲しいと思うに至りました。政治家にとって言葉は命であるはずです。政治は言葉を手段とした営みとすれば、発した言葉に責任を持つことは当然として、発する言葉を吟味し、理解されるまで丁寧に対話することが重要な任務の一つではないでしょうか。批判、攻撃、その場しのぎと感じてしまう大言壮語、理解できそうもない横文字言葉(独語のaufhebenに至っては、呆れ果ててしまいました)が闊歩する主張や説明には、もううんざりです。
 そんな場面を睨みつけたとしても、参政権を放棄する訳には参りません。一人ひとりを評価する情報も非常に限られていますが、その範囲から難しい選択をするしかありません。そんな時の気分転換策として、私はこうしています。醜い自分ファーストを反面教師とすることです。“人のふり見て我がふり直せ”と、 私の言行を看脚下することにしています。自己啓発的振り返りを押し付け風に自己奨励しています。あれこれと紙面を割いてしまいましたが、これがコミュニケーションの実態なのです。
 それでは、どう対処したらいいのでしょうか。永遠の課題かもしれませんが、私が実践している小さなアクション例を紹介したいと思います。

 いのうえ塾で実施するコミュニケーション基礎講座に、“コミュニケーションの難しさ体験ゲーム”(以下、体験ゲーム)があります。その中で、声を大にして問いかけていることが、信頼と安心のコミュニケーションを実現するための前提条件(或いは、行動理論)を、どのように捉えるかという本質的側面についてです。私自身の数多くの苦い失敗体験からも、本質的側面をハッキリと申しあげたいのです。私が考えている当たり前の前提条件が、見過ごされていることが多いと感じているからでもあります。
 コミュニケーション能力を磨きあげる一番の前提条件は、コミュニケーションの定義に鑑みて『コミュニケーションの難しさを、常に意識すること』です。一週間の基礎講座においては、この行動理論をサブタイトルとして、切磋琢磨しながら学び合うことにしております。体験ゲーム(2~3時間)では、『共通に理解できる言葉を活用することの重要性、必要性を認識すること』、『共通認識を確認して共有化しておくことの重要性を理解すること』の二点を狙いの中心に据えた進め方を心がけております。これらの前提条件をどう位置付けるかによって、受講者の克服目標は大きく異なってきます。信頼と安心のコミュニケーション実現の重要なポイントなのです。
 何年もの間、薬学生や現役薬剤師との教育機会を通して、つくづく実感させられることがあります。信頼と安心のコミュニケーション実現のための前提条件をどのように捉え、それを意識した実践的教育が行なわれているのだろうか、という疑問です。開催することが目的の教育機会ほど、無駄で無益なものはありません。体験ゲームを始めとした基礎講座での受講者の実態から、そんな危機意識が常につきまとってしまうのです。コミュニケーションの根幹は、行き着くところが人としての揺るぎのない信頼関係ではないでしょうか。友好を伴った信頼に至るかどうかです。それは、発酵と同じで、時間をかけた熟成というプロセスが必要です。“コミュニケーションの難しさを、常に意識すること”の本質の一つは、『人間同士の信頼関係は、一朝一夕には得られない』ということなのだと思います。

 さて、“コミュニケーション能力を高める一番の方法は何か?”と問われて、私は何と答えるでしょうか。10年来、こう言い続けております。『多くの人と、積極的に対話すること』と。それも、意見の異なる人、気難しい人、聴き上手の人、口数の少ない人など、いろんなタイプの人と対話することです。コミュニケーションの定義、信頼と安心のコミュニケーション実現の前提条件(行動理論)を意識して、赤ちゃんも含めた老若男女と、笑顔で対話することです。自分:相手=49<51を思い起こし、心を啓いて対話することです。自発的な対話を続けるプロセスこそが、何にも増して身近で最良の能力開発手法ではないでしょうか。これが私の見解です。
                                                                         (2018.4.15記)

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