私が持ち合わせていると自認する課題解決法は、時間がかかっても、諦めないで、コツコツ努力を積み上げることしか見当たりません。優先順位に沿って、目の前の問題・課題と向き合い、考えついた対処法を実践することが、私にできる唯一の手法なのです。結果がどうであれ、その結果を受け入れる覚悟を以って臨むようにしております。
そこに至った理由が何であったのか? この際まとめておきたいと思います。
私の場合は、自覚しているいくつかの悔しい出来事が原点でした。それしか考えられません。そんな出来事が積み重なって、気がつけば“こんな事で負けて良いの?? …… 負けてなるものか!”という前向きな姿勢に繋がるようになりました。私のモチベーションを高める要因の一つとなったのです。平成30年という節目に、その出来事を振り返ってみたいと思います。
怒りを鎮めて…焦らず腐らず日々努力~悔しい体験から逃げないこと
5年近く前になります。一生忘れてはならない私の初心を、隠すことなく正直に呟きました。“私が未熟だった時の出来事を忘れるな”というのが初心の本意です。その時の心情は、居たたまれないほどの気持ちから逃げ出したい一心でした。本音は悔しさでいっぱいでした。昭和60年代から平成10年代前半までの期間は、私の初心の溜まり場でしたね。その後も、情けないほど悔しい体験を何度か味わいました。先ず、3年前のエッセイで紹介した実例に再登場して頂きましょう。
全国規模の販売会社では、エリア毎の売上構成比率が、施策面での重点地区設定の優先度に影響してきます。マーケティング戦略と戦術は当然として、人事面、社員教育面などにも少なからず反映していたことでしょう。私が20数年間お世話になりましたハウスホールド・パーソナルケア・サニタリー製品(在籍当時の取扱商品カテゴリー)卸売業のK販売は、各県毎にその地域の問屋が中心となって単一メーカー製品専門の卸売業として設立されました。以降、全国シェア(市場占拠率)ナンバーワンを目標に、何度かの合併をくり返して全国を一括カバーする会社に成長しました。何年か前に社名を変えて現在に至っているようです。
私が退職した17年ほど前には、全国9拠点体制で運営をしておりました。北海道、東北、東京(関東1都7県)、中部、近畿、中国、四国、九州の8支店と支店を統括する本店(東京)がありました。K販売の売上高は、いわゆる東阪名(東京、中部、近畿)の3大経済圏で70%を優に超えていたと記憶しております。日本全体の人口の7割弱(2010年国勢調査データ)ですから、当然の結果でしょう。
私が在籍しておりました1992年(平成4年)当時の東北地区(青森、秋田、岩手、宮城、山形、福島の6県)は、人口構成比が対全国比8%弱で、売上高構成比も7%ほどだったと思います。一方、エリア面積は日本全土の17%近くもありましたから、活動面での生産性向上には頭を悩ませました。そのような実態は、裏を返して考えてみれば、業務革新の宝庫だったと思います。しかし、歴史によって培われた暗黙の劣等意識が大きく勝っていました。それが生の姿でした。いずれにしても、売上高規模と売上高構成比率が、あらゆる面での序列順位となっており、それが当たり前という環境の中にありました。
その会社では年2回程度の頻度で、全社あげてのベストプラクティス発表会がありました。半期間の創造的チャレンジ活動の成功事例発表会です。全国の中で注目される先進的なベストプラクティス事例が、毎回数テーマ発表されました。具体的には、消費者への購買促進策成功事例、コンサルティング的売場改善提案事例、効果的効率的な販売活動革新事例、事業所の仕事改善事例など、企業理念や基本方針の具現化が顕著であった活動実践事例です。取りあげられる事業所は、売上高構成比の7割を占める東阪名地区がメインでした。一方、影響度が低い地区(つまり、ABC分析による売上高構成比がBランク、Cランクの地区)の場合、頑張りが評価される度合いが低かったと思います。そのような状況下で怖かったのが、東北地区のようなB・Cランクの地区では“それで当り前、それが当り前”という意識が染み付いてしまうことでした。そのような現状に甘んじてしまい、常に五番手、六番手でオーライ、という負け犬根性に蝕まれてしまうことでした。それ以上に、そういう認識すら感じなくなってしまうことを恐れた時期もありました。
卸売業であっても、当時の組織形態には、人事、総務、経理、教育、物流などの間接部門も地区毎に存在しておりました。私の配属先は、新設部門の教育部でした。新設部門ですから蓄積されたノウハウもありません。先ず、自分自身を一人前の教育担当にすることから始めなければなりません。それから数年間、全国の教育担当者育成のプロジェクト活動が頻?に行なわれました。仕組み作り、教材作り、マニュアル作りと、真新しい白いキャンバスに新たなロードマップを描く活動です。不慣れな活動を未熟な能力で実践しながらのプロジェクトでしたから、今振り返ってみれば、よくやれたと思うほどの10年間でした。教育を始めとする間接部門においても、売上高構成比の高低による影響度が巾を利かせていたと思います。(本音では)生々しい実態を詳しく申しあげたいのですが、際限がありませんので話を先に進めましょう。
売上高構成比の高い東阪名地区の活動には、目を見張る成功事例、取り入れるべき成功事例が、それなりに存在はしておりました。また、会社全体を背負っているという自負心、そして背負っているというプレッシャーを感じながらの活動には、素直にリスペクトしておりました。一方、何年かして全体が見えてくると、首をかしげたくなる活動、当地にはフィットしない活動も分かってきました。そんな事例を“参考にせよ。真似をしなさい”と押し付けられたことが、一再ならずあったように記憶しております。
このようなこともありました。私が担当する人事教育部門において、明らかに素晴らしい成果に結びついた活動が看過されたことです。問題提起をしても、見向きもされずに無視されたこともあります。一方的に、業務連絡一本で報告書の提出を求められたことだってありました。事実と異なる実態を指摘されたり、訳もなく威張り散らされた出来事は、今でも反面教師として忘れることはありません。正直に申しあげますと、精神的にはかなり腐りました。腹の底から怒り、眠れないほどの悔しさから、任務を投げ出したくなったことも何度かありました。しかし、頭を冷やして考えれば、それでは何一つ産み出すことが出来ないばかりか、結局、私自身が負けたことになりますし、部下に対して顔向けができなくなります。そんな思いが数ヶ月続いたある時、一つの指針が私の眼に留まりました。それは、アオイクマの五ナイ精神でした。五頭のアオイクマたちは、私の内面に冷静さを呼び戻してくれました。アは「焦らない」、オは「怒らない」、イは「威張らない」、クは「腐らない」、マは「負けない」です。これらは、他人事精神を排除した自戒の心構えです。アオイクマに出会って数日後には、「こんなことで負けてたまるか!」に至ったのでした。
人は誰でも、自分自身の未熟さを置き忘れて冷静さを見失うことがあります。気がつけば、失敗の原因を対他要因に求める、感情が先に立って失言・失態を繰り返す、という見苦しい対処法をとることになります。「焦る」、「怒る」、「腐る」では、暗に負けを認めたことを意味します。ある時、こう決めました。悔しい体験から逃げないで、焦らず腐らず日々努力しよう。小さなサクセスストーリーを、一つひとつ積みあげよう。…… と。日々の小さな積み重ねが、私の人生の石垣を築いていくのだと思います。
地味な行いを重ねる毎に、そんな行動姿勢を自然体で実践できるようになりました。謙虚の二文字を心に刻んで、一生学ぶ人であり続けるようになりました。そうすることが、私の座右銘である誠実であることを、思い出させてくれたのでした。
我、決して焦らず、腐らず、辛抱して平凡なことをやり続ける。
我、不都合を人に押しつけない。相手の身になって、当り前のことをやり続ける。
これ誠実なり。 (読み人知らず)
(2018.3.7記)