2週間と数日で、79才になります。古希を過ぎてからでしょうか、無意識のうちに、年を重ねることの意味を考えるようになりました。これまでのE森で、何度か取りあげております。生涯現役を目指していた私ですが、体調維持に自信が持てなくなったことから、2年前に仕事継続を断念しました。それから数ヵ月して感じたことがあります。仕事を離れてから、人と会うことがガクンと減ったということです。つまり、仕事というのは、多くの方々との出会いの場になっていたということに気づかされました。仕事から得られる貴重な賜り物の一つだと実感したのです。一方で、この数年間、学生時代の部活動(東京薬科大学合唱団)仲間や青春時代の仕事仲間の訃報が続いております。仲間とは、一途にひたすらに切磋琢磨した同志です。訃報という現実に接するたびに、年を重ねるということは、出会いより別れの方がずっと多くなるということを思い知らされるのでした。
出会いという意味では、会社における人事の仕事は、正に様々なかたちでの出会いが詰まった宝箱のような現場仕事でした。1987年(昭和62年)から、五つの会社で採用業務に従事したことになります。採用の仕事は出会いの場でしたから、30数年間で数千人の方と出会ったと思います。その出会った方々から、多くの事を学びました。これまでのエッセイで、その一部を取りあげてきました。エッセイ340回は、人事の仕事を遂行する上で、私の基本スタンス形成のもとになった忘れられない高校生との出会いを呟いてみたいと思います。
心が通い合うコミュニケーションのあり方を教えてくれた17才の高校生
1997年(平成9年)前後だったと思います。障がい者を対象とした、確か公的機関主催の就職面接会に、TK販売の採用担当として参加しました。その場における17才の高校生Cさんとの出会いは、私が目指していた応答による対話のあり方を教えてくれたのです。その時の得難い体験を忘れることはありません。先ず、Cさんとの出会いの様子を再現してみましょう。
Cさんは、小さい頃聴力を失い、手話と相手の口唇の形を見て対話する女子高校生です。当日の午前中、チョッピリはにかんだ表情で、同行された先生と一緒にTK販売のブースを訪れました。当然、企業研究が目的です。当時の私は、Cさんと同じような聴覚障がいの社員と仕事をしていました。その様な経緯から、話し方のスピード、口の開け方など、少しでもCさんのお役に立つことを意識しながら対話を進めました。最初は、なかなか話してくれませんでしたが、私の問いかけに対して徐々に反応してくれるようになりました。面接が終わって気づいたことがあります。それは、Cさんの履歴書や返答を踏まえて“引き出す対話”を心がけたことで、本人の気持ちを素直に表現してくれたのだと思います。対話は、40分以上も続いたと思います。面接終了後、付き添いの先生が深々と頭を下げて、感謝の意を表してくれました。「あの子と、こんなにお話して頂いた方は初めてです。あの子も、いっぱい話していました。本当に有難うございました」と。
先生から感謝の言葉を頂いて、心の通い合うコミュニケーションのあり方を、改めて考させられました。コミュニケーションテクニックを磨くことは当然ではありますが、その土台として必須な存在が厳然としてあることです。それは、人間性に対する自分自身の絶対的信念が何であるか、ということにつきます。“人間は、もともと仕事が好きなのだ、人間が好きなのだ”ということを、絶対的信念にしているかどうかということです。それによって、言動や行動は大きく異なってきます。もう一つ、心に決めたことがあります。信頼のコミュニケーション実現へと導く方途の基本は、グルグル回りの応答の対話だということです。
以上、Cさんとの出会いを再現してみました。今振り返って、Cさんの顔は思い出せませんが、あの日の出来事は心の隅にキチンと残っています。あの40分間の面接が、人事担当のコミュニケーションのあり方を示唆してくれたのです。そのことが、後々の難題に立ち向かう時の基本スタンスとなっていたと確信しております。その基本スタンスは、全ての職種に相通じるということも申し添えて、今回のエッセイを閉めたいと思います。
EDUCOいわて・学び塾主宰/薬剤師 井上 和裕(2025.9.22記)

